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奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編13 本文
13.犠牲の本当の意味は何でしょうか
ACIM-Manual 13-1
真理においては、犠牲という言葉そのものにはまるで何の意味もありませんが、この世界においては確かにその言葉に意味があります。
世界の全てのものと同じように、それが持つ意味は一時的なもので、それが何の役にも立たなくなった時には、それがもともと生じてきた所である無の中に、いずれは消滅していきます。
今は、それの真の意味は、それがひとつのレッスンだということです。
全てのレッスンと同じく、このレッスンも幻想のひとつであり、実在においては何一つ学ぶことは何もありません。
しかし、この幻想は、ある訂正用の仕組みに取って変わられなければなりません。
つまり、最初の幻想に取って変わるもう一つ別の幻想であり、そうすることで最終的には両方とも消滅する事が可能になります。
別の思考体系が定着できるようになる前に、まず取り除く必要がある最初の幻想とは、この世界の物事を手放すことは犠牲を払うに等しい、という考えです。
この考えが幻想以外の何ものでもないのではないでしょうか。
なぜなら、そもそもこの世界そのものが、幻想に過ぎないからです。
ACIM-Manual 13-2
この世界が与えてくれるものなど何一つないという事実を悟り、そのことを受け入れるには相当な学びを必要とします。
ところで、実在しないものを犠牲にするとは、どんな意味が有り得るでしょうか。
それは、その犠牲のためにあなたの持ち分が減るという意味にはなり得ません。
この世界が定義する犠牲という言葉は、 身体に関連しないものはありません。
世界がどんなことを犠牲と呼んでいるか、少し考えてみなさい。
権力や名声やお金や快楽など、これらの全ての所有者である「主人公」は、一体誰でしょうか。
こうしたものは、 身体以外のものにとって何らかの意味があるでしょうか。
しかし、 身体には評価するということはできません。
そのようなことを追い求めているために、心は自らを 身体と関連づけて考え、自らのアイデンティティーを不明瞭にしてしまい、自らの本性が何なのかが分らなくなっています。
ACIM-Manual 13-3
一旦このような混乱が生じてしまうと、この世界で「楽しい」とされていることが、どれも全て無であるとは心には理解できなくなってしまいます。
しかし、この全ては、何という犠牲を伴うことでしょう。
それは、確かに犠牲としか言いようがありません。
今や心は、見つけることなく探し求めざるをえない運命を自らに宣言したことで、いつまでも不平不満を抱くことになり、自分が本当に何を見つけたいのかも分らなくなっています。
一体誰が、自分自身へのこのような宣言から逃れられる者がいるでしょうか。
神の言葉によってのみ、逃れることが可能と成り得ます。
というのも、自分への宣言とは自分自身へのアイデンティティーについて決断を下したということであり、誰一人、自ら信じている自分というものを疑う者はいません。
その人はありとあらゆることを疑うかもしれませんが、絶対にこのことは疑ったりしないのです。
ACIM-Manual 13-4
神の教師たちは、この世界の楽しみを諦めることを少しも残念に思うことは有り得ません。
苦痛を諦めるのは、犠牲を払うことでしょうか。
大人が子供の玩具を諦めるのを嫌がるでしょうか。
自らの心眼で既に キリストの顔を垣間見た者が、屠殺場を懐かしんで振り返って見たりするでしょうか。
この世界とその中にある病苦の全て逃れた者は、誰一人この世界を非難しようとして振り返ったりはしません。
しかし世界の価値観がその人に要求してきた犠牲の全てから自分が自由であることをその人は喜ぶに違いありません。
世界の価値観のために、その人は自分の平安の全てを犠牲にしています。
世界の価値観に対して、その人は自分の自由の全てを犠牲にしています。
そして、それを手に入れるためには、その人は天国への希望と父の愛の想起を犠牲にせざるを得なくなります。
正気の心でいる者なら、一体誰が全てであるものの代わりに、無を選ぶでしょう。
ACIM-Manual 13-5
犠牲の真の意味とは何でしょうか。
犠牲とは、幻想を信じることの代償です。
それは、真理を否定するために払わなくてはならない代価です。
この世の楽しみのうちで、こうした代価を要求しないものは一つもありません。
さもないと、そうした楽しみは苦痛だと見なされるようになり、もしそれと気づいたなら、誰一人、苦痛を求める者などいないからです。
犠牲という想念が、その人を盲目にしています。
自分が何を求めているのかがその人には分っていません。
それ故に、その人は、数え切れないほどの色々な方法で、しかも数え切れない場所で、それを探し回り、今度こそと、そこにあるものと信じながら、その都度落胆に終わることになります。
こうして、「探せよ、されど見つけることなかれ」というのが、いつまでもこの世界の厳しい掟となります。
この世界の目標を追い求める者で、これに当てはまらない者は誰一人いません。
ACIM-Manual 13-6
この奇跡のコースの教えは、あなたが本当に大事にしているものを全て犠牲にするように要求していると、あなたは信じているかもしれません。
ある意味、それは真実だといえます。
あなたは、神の子を十字架に磔にするものを大事にしています。
その神の子を解放することを、このコースは目指しているのです。
しかし、犠牲とは何を意味するのか、それを誤解してはなりません。
それはいつでも、自分が望んでいるものを諦めるということを意味します。
では、神の教師よ、あなたの望むものとは一体何でしょう。
あなたは神に呼びかけられ、そしてそれに応えました。
今になって、あなたはその呼びかけを犠牲にするつもりでしょうか。
今のところごく僅かの者しかそれを耳にしておらず、その人たちが頼れるのはあなただけです。
その人たちが信用して期待できることは、世界中で他にはなにもありません。
その他に、神の声を反映する声はこの世界のどこにもありません。
もし、あなたが真実を犠牲にしようとしたなら、その人たちは地獄に留まることになります。
そして、もしその人たちが地獄に留まるのなら、あなたもその人たちと一緒に留まることになります。
ACIM-Manual 13-7
犠牲とは、全面的なものであるということを忘れてはなりません。
中途半端な犠牲というものはありません。
天国を部分的に諦めるということはできません。
地獄に少しだけ足を踏み入れることもできません。
神の言葉に例外はありません。
このことが、それを神聖にし、この世界を超越したものにします。
その聖性が、神への道を指し示します。
その聖性が、あなたを安全にします。
もし、あなたが兄弟の誰かを何らかの理由で攻撃したなら、この聖性を拒むことになります。
ここで神との分裂が生じるからです。
その分裂は、有り得ない分裂です。
起こるはずのない分裂です。
ところが、それはあなたが確かに信じる分裂です。
というのも、有り得ない状況を自分で設定してしまったからです。
そして、こうした状況においては、そんな有り得ないことが起こり得るように思えます。
それは、真理を犠牲にして起こるように見えます。
ACIM-Manual 13-8
神の教師よ、犠牲の意味を忘れてはなりません。
そして、自分の下す一つひとつの決断が、代償という観点から何を意味せざるを得ないかも思い出しなさい。
神を選ぶ決断をしなさい。
そうすれば、一切があなたに全く無償で与えられるでしょう。
神に逆らうこと決断をすれば、あなたは一切についての代償を犠牲にして、無を選ぶことになります。
あなたは何を教えたいでしょうか。
自分が学びたいことだけを覚えておきなさい。
なぜなら、あなたの関心は、そこに留まるべきだからです。
贖罪は、あなたのためにあります。
あなたが学ぶことでそれが自分のものとなり、あなたの学ぶことがそれを与えます。
この世界はそれを内包していません。
ただこの奇跡のコースを学びなさい。
そうすれば、それはあなたのものとなります。
神は自らの言葉をあなたに差し出しています。
それは、神が教師を必要としているからです。
神の子を救うのに、他にどんな道があるでしょうか。
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