奇跡講座マニュアル編12.世界を救うためには神の教師が何人必要でしょうか

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編12 本文

 

12.世界を救うためには神の教師が何人必要でしょうか

ACIM-Manual 12-1

この質問に対する答えは、「一人」です。

自分の学びを完了した全一で申し分ない一人の教師がいれば、それだけで十分です。

聖別化され救われたこの一人が、神の子そのものである真の自己となります。

常に全く霊(Spirit)そのものであったその人は、今ではもう自分自身を 身体として見なすことも、 身体の中にいると見なすことさえしません。

したがって、その人は無限です。

そして無限であるからには、その人の想念は神の想念といつまでも永遠に一つに結ばれています。

その人の自分自身に対する知覚は、その人自身の判断に基づいておらず、神の審判に基づいています。

したがって、その人は神の意志を分かち合っており、その神の想念を、未だに惑わされている心へともたらします。

その人が永遠に一なる者なのは、神が創造したままの在りようであるからです。

その人は、 キリストを受け入れたのであり、救われています。

 

ACIM-Manual 12-2

こうして、人の子は神の子となります。

それは、実際には変化ではなく、心が変わったのです。

外面は何一つ変わりませんが、今や内面の全てが神の愛のみ映し出しています。

神に対する恐れは、もはや有り得ません。

なぜなら、心が処罰の原因を何も見なくなるからです。

神の教師が大勢いるように見えますが、それはこの世界の必要がそういうものだからです。

しかし、一つの目的のために結ばれ、しかも、神と分かち合っている一なる目的においてつながっているその人たちが、どうして互いから分離していられるでしょうか。

それなら、もしその人たちが色々な形で現われたとしても、それがどうしたというのでしょう。

その人たちの心は一つで、その人たちは完全にひとつに結ばれています。

そして、神は、今や一なる存在として、その人たちを通して働きます。

それが、その人たちの本性であるからです。

 

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では、なぜ大勢という幻想が必要なのでしょうか。

それはただ、惑わされている者にとって、実相は理解できるものではないからです。

神の声を少しでも聞くことが出来るものは、きわめて少なく、その人たちでさえその神からのメッセージを自分に与えた霊を通じて直接にそのメッセージを伝えて意思の疎通をはかることはできません。

その人たちには、自分が霊(Spirit)であると悟っていない人たちとの意思の疎通を可能にするような媒体を必要とします。

それはすなわち、その人たちにも見える 身体です。

誰かの声ならよくわかるし、耳を傾けもします。

そして、真理がその人たちの中に浮上させることになる恐れを介さず、その人たちが理解し耳を傾けることのできる声です。

真理は、恐れずに歓迎されるところにのみ入って来ることが出来る、ということを忘れてはなりません。

なので、神の教師たちには 身体が必要です。

なぜなら、その人たちの一体性は直に認識されることは不可能だからです。

 

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しかし、何をもって神の教師とするかといえば、 身体の適切な目的についてのその人たちの認識です。

その人たちが、この勤めを進歩していくにつれて徐々に確信を深めていくのは、 身体の機能は、ただ神の声がその 身体を通して人間の耳に語られるようにすることだけだということです。

そして、その耳は聞き手の心へと、この世界からではないメッセージを運び、そのメッセージの源ゆえに、その心はそれを理解するでしょう。

こうしたことの理解から、この新しい神の教師の中に、何が真の 身体の目的なのかの認識が生まれるようになります。

それは、 身体にとって真に存在する唯一の使い道についての認識です。

このレッスンだけで、一つに結ばれている想念を招き入れるのに充分であり、一なるものが確かに一つであると認識されます。

神の教師たちは、分離という幻想を分かち合っているように見えますが、そういった見かけはどうあれ、 身体を何のために使っているか分っているので、そんな幻想を信じてはいないことになります。

 

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主要となるレッスンは常に、 身体はあなたがそれを何のために使おうとするかという目的に即したものになるということです。

身体を罪のため、あるいは罪と同じことだといえる攻撃のために使えば、あなたは 身体を罪深いものだと見るようになります。

身体は、罪深いから弱いということになるし、弱いので苦しみもすれば死にもします。

神の言葉を持たない人たちに、神の言葉をもたらすために 身体を使えば、その 身体は神聖なものとなります。

神聖なのだから病気になるはずはなく、死ぬことも有り得ません。

役に立つ時期が過ぎたら、その 身体を横たえる、ただそれだけのことです。

心がこれを決めます。

というのも、心は 身体の状態を左右する全ての決断を下すからです。

とはいえ、神の教師はこうしたことを一人で決めるのではありません。

一人で決断をするならば、 身体を神聖に保つ目的とは別の目的を、 身体に与えることになります。

神の声は、神の教師にその人の機能は何なのか教えてくれますが、それと同じように、その人が自分の役割を果たし終えた時も、その人にそのように伝えるしょう。

その人は去ることになっても留まることになっても、そのいずれにせよ苦しむことはありません。

今や、その人にとって病気になることは不可能なのです。

 

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一なることと病気とは同時に存在することはできません。

神の教師たちは、しばらくの間、夢を眺めることを選びます。

それは、意識的な選択です。

というのも、全ての選択は、それがもたらす結果を十分承知した上で意識的に成されることを、その人たちは学んだからです。

夢はそれに反論します。

しかし、夢の正体にひとたび気づいたなら、一体誰がそんな夢を信頼しようとなどするでしょうか。

夢を見ているのだと自覚することこそ、神の教師たちの真の機能です。

その人たちは、夢のなかの人影が行ったり来たりし、あれこれと変化しては苦しんで死んで行くのを見つめます。

しかし、自分の見ているものに欺かれることはありません。

夢の中の人影を病んで分離していると見ることも同じく健康で美しいと見なすのも、同じく実在性のないこととだと認識しています。

一体性のみが、単なる夢からのではありません。

そしてこのことをこそが、夢の背後にあるものとして認識しているものであり、あらゆる外見を超えたものであるが確かに自分たちのものとして認めているものです。

 

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編の目次

マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

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