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奇跡講座(奇跡のコース)ワークブック編レッスン161本文
レッスン160《私は家にいます。怖れはここでは見知らぬ存在です。》
「怖れ」は「愛」の在り方にとっては見知らぬ存在です。
怖れに帰属意識を抱けば、あなたはあなた自身にとって見知らぬ存在となるでしょう。
かくして、あなたはあなたにとって知られていない存在になります。
あなたの「自己」であるものは、自分は実在するけれどあなた自身とは異なっていると考えるあなたの部分にとって異邦人であり続けます。
そのような状況において正気でいることができる人がいるでしょうか。
狂っている人以外の誰が、自分は自分の本質ではないと信じ、自分自身に対して否定的な価値判断をすることができるでしょうか。
私たちの真っただ中に見知らぬ存在がいますが、「それ」は真実にとってあまりにも異質な考えから来ているために、異なった言語を話し、真実が知らない世界を見て、真実が無意味であると見なすものを理解します。
さらに奇妙なことに、「それ」は誰のところにやって来るのかを認識せず、にもかかわらず、やってきたその家は自分の家であると主張しますが、「それ」は今や家にいる異邦人なのです。
しかしながら、次のように言うことはなんと簡単なことでしょうか。
“これは私の家です。私はここに所属します。そして、狂っている人がそうしなければならないと言ったからといって私はこの家を去りません。”
これを言わないどんな理由があるというのでしょうか。
その理由は、あなたがあなたの場所をとって自分のものにするようにと「この見知らぬ存在」を招き入れ、あなたをあなた自身に対しての見知らぬ存在にすることをゆるしたからではないでしょうか。
自分の好みに合った別な家があると思わなければ、不必要に自分の家をなくしてしまう人がいったいいるでしょうか。
この「見知らぬ存在」とは誰でしょうか。
それは「怖れ」でしょうか。
それとも、「神」が「神の子」に提供してくれた家にふさわしくないあなたでしょうか。
怖れは「神自身のもの」で、「神」に似せて創造されているのでしょうか。
愛が(愛そのものとして)完結するのは怖れでしょうか。
そして、「愛」は「怖れ」によって完結されるのでしょうか。
愛と怖れの避難所になることができる家はありません。
愛と怖れは共存することはできません。
もしもあなたが実在するならば、怖れは幻想であるに違いありません。
そして、怖れが実在するならば、あなたはまったく存在していません。
とするならば、なんと簡単にこの疑問は解決することでしょうか。
恐れている人が自分自身を否定して言ったのです。
“私はここでは見知らぬ存在です。ですから、私は私の家を去って私よりも私らしい人に家を明け渡し、私のものであると思っていたものをすべてその存在に与えることにします。”
今やその人は必然的に流浪の身となり、自分が誰であるかが分からず、その人はその人自身ではないということ、そして、その人の家はその人の家でなくなってしまったということ以外はすべてのことに確信を持つことができません。
その人は今や何を探すのでしょうか。
その人は何を発見できるでしょうか。
その人自身にとっての見知らぬ存在は、どこを探しても家を見つけることはできません。
というのは、その人は家に帰ることを不可能にしてしまったからです。
その人は道に迷ってしまいました。
しかし、奇跡がその人を探し出してその人は今や見知らぬ存在ではないことをその人に示してくれるでしょう。
奇跡はやってきます。
というのは、その人の家にその人の「自己」が残っているからです。
その人の「自己」は見知らぬ存在を招き入れてはおらず、異質な思いを「それ自身」であると理解してはいません。
そして、あなたの「自己」は「それ自身のもの」を、何が「それ自身のもの」であるかを認識して「それ自身」に呼びます。
この見知らぬ存在は誰でしょうか。
「それ」はあなたの「自己」が呼ばない存在ではないでしょうか。
あなたは今、あなたの中心にいるこの見知らぬ存在を認識することができません。
というのは、あなたは「それ」にあなたが占めるべき正当な場所を与えてしまったからです。
しかしながら、あなたの「自己」は、「神」が「自分の子」について確信を持っているのと同じくらい、それ自身のものについて確信を持っています。
「神」が創造に関して混乱するはずがありません。
「神」は「神」に所属するものについて確信を持っています。
見知らぬ存在を、「神」の叡知と「神の子」の実在の間にさしはさむことはできません。
「神」は見知らぬ存在について知りません。
「神」は「自分の子」について確信を持っています。
「神」の確信で十分です。
「神」が「自分の子」であると知っている存在は、「神」が「自分の子」を永遠に置かれた場所に所属しています。
“この見知らぬ存在は誰ですか”と聞いたあなたに、「神」は応えたのです。
「神の声」があなたはあなたの「父」にとって見知らぬ存在ではなく、あなたの「創造主」もあなたにとって見知らぬ存在ではないと保証するのを、静かに確信をもって聞いてください。
「神」が一緒にしたものは永遠にひとつであり続け、「神」においてくつろいでおり、「神自身」にとって見知らぬ存在ではありません。
今日、私たちは「 キリスト」が「自分」に属するものを求めてこの世界を探究するためにやって来たことに感謝をささげます。
「 キリスト」のヴィジョンは見知らぬ存在を見ることはなく、「 キリスト自身のもの」を見て、その人たちと喜んで一体になります。
その人たちは「 キリスト」を見知らぬ存在として見ます。
というのは、その人たちは自分自身を認識していないからです。
しかしながら、その人たちが「 キリスト」を歓迎するとき、その人たちは思い出します。
そして、「 キリスト」はその人たちが所属する家へとその人たちを再び優しく導いていきます。
「 キリスト」は誰のことも忘れません。
あなたの家が確立されたときと同じように完全で完璧であるようにするために、「 キリスト」はあなたが思い出すべきすべての人をあなたに与えます。
「 キリスト」はあなたを忘れてはいません。
しかし、あなたは、「 キリスト」と同じようにすべての人を見るようになるまでは、「 キリスト」を思い出すことはありません。
兄弟を否定する人は「 キリスト」を否定しています。
そしてそのようにして、それによって彼の「自己」が明確に認識され、その人の家が思い出され、救いがやって来る視力の贈り物を受け取ることを拒絶します。