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奇跡講座(奇跡のコース)ワークブック編 レッスン181 本文
レッスン181《私は私と一つである私の兄弟を信頼しています。》
あなたの兄弟を信頼するということは、あなたが自分自身を信頼することへの疑いや確信の欠如を越える能力を持っていることへの信頼を確立するために不可欠です。
あなたが兄弟を攻撃する時、あなたは自分がその人の中に知覚したものによってその人を限定していることを宣言しているのです。
あなたは彼の過ちを見過ごしていません。
むしろ、彼の過ちが誇張され、自分自身の間違いの向こうに、あなたの罪だけでなくその人の罪を通り越したところにある大いなる「自己」についてのあなたの自覚に対する障害物になってしまっています。
知覚というものには焦点があります。
あなたが見るものに首尾一貫性を与えるのはこの知覚の焦点です。
この焦点を変えれば、あなたが見るものはそれに応じて変わります。
今、あなたが以前に用いていた意図に置き換わった意図を支持するようになるため、あなたのヴィジョンが変化することになります。
あなたの兄弟の罪に対するあなたの焦点を取り除けば、あなたは罪の無さを信頼することから訪れる安らぎを体験することになります。
この信頼はあなたが他の人たちの中に罪を通り越して見るものから、自らにとって唯一の確実な支持を受け取ることになります。
というのは、もしも他の人の間違いに焦点を合わせて見るならば、あなたの中にある罪を証明することになってしまうからです。
そうであるなら、あなたはその人たちの姿を越えて、その向こうに広がる罪の無い姿を見ることなどできないでしょう。
したがって、今日の練習においては、私たちは最初にそのようなこまごまとした焦点を、私たちの無罪性そのものを明らかにさせる大いなる必要性に道を譲るようにさせます。
私たちは、自分たちが探しているのはの、これ、これだけであるということをほんの少しの間だけでも自分の心に教えましょう。
私たちの将来の目標のことなど気にすることはしません。
そして、ほんの一瞬前に見たものは私たちの意図を変える練習をするこの時間の中においては全く私たちの関心事ではありません。
私たちは罪のなさを探求するのでありそれ以外のものは何も探求しません。
私たちは今この瞬間以外のことは何も気にすることなく無罪性を探求します。
成功への最大の障害はあなたの過去と( 自我に基づいた 自我が設定した)未来の目標に巻き込まれてしまうことでした。
あなたはこのコースが唱導する目標はあなたが以前に持っていた目標とは極端なほどに異なることに非常なほどに気を奪われてきました。
そして、たとえもし成功したとしても再び道を見失ってしまうことは避けられないだろうという憂鬱で束縛されるような思いにも不安を感じてきました。
これがいったいどうして重要であり得るのでしょうか。
というのは、過去は過ぎ去ったことであり、未来は想像されているものに過ぎません。
これらの心配は知覚に対する焦点を、今変えようとすることに反対する防御に過ぎません。
それ以上のものではありません。
私たちはこれらの意味のない制限をしばらくの間停止させることにします。
過去の信念に頼ることをせず、未来に信じるであろろうことにも今この瞬間の私たちの邪魔をさせません。
私たちは内面に無罪性を見るという一つの意図をもって練習時間に入ります。
どのような形であれ怒りが私たちの道の邪魔をしたならば、この目標を失ってしまったことを私たちは認識するべきです。
そして、だれか兄弟の罪が心に浮かぶのならば、私たちの狭められた焦点は私たちの視力を制限し、私たちの目を私たち自身の間違いに向けさせ、それらの間違いを拡大してそれらを自分たちの”罪”と呼ぶことになるでしょう。
このようなわけで、そのような障害が生じた場合には、私たちのマインドに少しの間、焦点を変えるようにと指示することによってそれらを超越することにしますが、その時は次の言葉を言うことにします。
『私が見たいのはこれではありません。
私は私と一つである兄弟を信頼しています。』
そして、この思いを使って私たちを一日中安全を保つようにもします。
私たちは長期的な目標を探求することはしません。
一つ一つの障害物が私たちの無罪性のヴィジョンを妨げるように思われる時は、私たちは、罪に対する焦点を合わせ、それがもたらす悲惨とその焦点が修正されないがゆえに残る悲惨を一瞬の間停止することだけを求めます。
私たちはまた夢想を依頼することもしません。
というのは、私たちが見たいと探求するものは実際にそこにあるからです。
そして、私たちの焦点が間違いを超越する時、私たちはまったく罪のない世界を見ることになります。
これを見ることだけが私たちの見たいと思うものになる時、これだけが真の知覚の名において探求するものになる時、「 キリスト」の目は不可避的に私たちのものとなります。
そして、「 キリスト」が私たちに対して感じる「愛」が私たち自身の愛にもなります。
これだけがこの世界や自分自身の中に反映されている唯一のものであることを私たちは見ます。
かつて私たちの罪を宣言したこの世界は、私たちには罪がないということの証拠になります。
そして、私たちが見るすべての人に対する私たちの愛は、何の罪も知らず、「自らの」無罪性のないいかなるものも考えることのできない神聖な「自己」についての私たちの記憶を証言します。
今日、私たちのマインドを練習に向ける時にこの記憶を私たちは探求します。
私たちは前方を見ることもせず、後方を見ることもしません。
私たちは現在いまこの瞬間だけをまっすぐに見つめます。
そして、いま依頼している体験に私たちの信頼を与えます。
私たちの無罪性は「神の意志」に他なりません。
この一瞬は「神の意志」と共にあることを私たちの意志が望む一瞬です。