←第18章 去り行く夢 18-Ⅰ実在の代用〔奇跡のコース テキスト編〕
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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章10-1 癒しと信頼 (1-8) 本文
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ある状況が全面的に真理のためにささげられると、心に平安があるのは必然的だと私たちは述べたことがあります。
平安の達成は、そうした専心の全一性を間違いなく推し量れる基準です。
しかし、私たちはまた、信が伴わないなら絶対に平安は得られないとも述べておきました。
というのは、真理にささげられることだけを唯一のゴールとしているものは、信によって真理へともたらされるからです。
こうした信は関わりのある人たち全員を含むことになりますが、ただそうすることによってのみ、その状況は有意義で全一なものとして見てとれるからです。
そして、誰もがすべてそこに含まれていなければなりません。
そうでないと、あなたの信は限られていて、あなたの専心は不完全となります。
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すべての状況は、それが適切に知覚されるなら、神の子を癒す機会となります。
そしてその人が癒される理由は、まさしく、あなたがその人に信を差し出したからです。
あなたは 聖霊にその人のことを委ね、あなたの 自我がその人に求める要求の一つ一つからその人を解き放ったからです。
かくしてあなたはその人を自由だと見なし、その心眼(ヴィジョン)を 聖霊が分かち合います。
そして 聖霊はそれを分かち合っているので、それを与えたのであり、こうしてあなたを通して癒すのです。
ひとつになった目的において、このように 聖霊につながることは、この目的を実在させることになります。
なぜなら、あなたがその目的を全一なものにするからです。
そしてこれこそ癒しそのものなのです。
身体が癒されるのは、あなたが 身体を持たずにきて、すべての癒しが内包する御心につながったからです。
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身体がそれ自身を病ませることはできないので、 身体が癒えるということはありえません。
身体には癒しは必要ありません。
健康であるか病気であるかは、すべて心が 身体をどのように知覚するか、そしてどのような目的に使おうとするか、で決まります。
心の切片が、自らを普遍的目的たるものからは分離したものとして見ることができるということは明白です。
こうしたことが起こるとき、 身体はその目的に対抗し用いられる武器となり、分離は起こったという「事実」を実証することになります。
かくして 身体は幻想の道具となり、そのように行動し、実在しないものを見て、真実が言ったためしのないことを聞き、狂気によって幽閉されているので、狂った行動をとります。
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すでに述べた通り、不信は幻想に直結するということを、見落としてはなりません。
なぜなら、不信にあるとは、きょうだいを 身体として知覚することであり、 身体はひとつになるという目的のために用いることができないものだからです。
もしきょうだいを 身体として見ているなら、あなたはその人と一つに結びつくことが不可能になる状態を確立してしまったことになるからです。
その人に対するあなたの不信が、あなたをその人から分離させ、それがあなたがた双方を癒されないままに保ってきたのです。
あなたの不信は、そのようにして、 聖霊の目的に逆らい、 身体を中心とした幻想の数々をもたらし、あなたがたの間を遮らせました。
そして 身体が病んだように思えてきます。
なぜなら、あなたがそれを癒しの「敵」として、真理の対極にあるものにしてしまったからです。
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信頼するということは、不信の反対であるに違いないと気づくのは、難しくはないはずです。
しかし双方がどのように作用するかということは、たとえそれが双方の根本的な違いに直接したがうにしても、あまりはっきりしていません。
不信は常に制限し攻撃しようとし、信はすべての制限を取り除き完全にしようとします。
不信は破壊したり分離したりしようとし、信は一つに結びつけて癒そうとします。
不信は神の子とその創造主のあいだに幻想をさし入れようとし、信は両者間に生じるように思える障害をすべて取り除こうとします。
不信は心を全面的に幻想にささげ、信はそれを全面的に真理にささげます。
中途半端に専心するのは不可能です。
真理とは幻想の無い状態であり、幻想は真理の無い状態をいいます。
両方が一緒に存在することは有り得ず、同じ場所で知覚されることも有り得ないのです。
両方に自分を捧げようとすると、永久に達成不可能な目標を定めることになり、それは目標の一つを、 身体を使って求めようとし、 身体というものを攻撃することで実在を捜し求めるための手段だと思うからです。
もう一方は癒そうとするので、 身体ではなくて心を頼りにします。
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癒しを必要とするのは心ではなくて 身体であると妥協して信じるようになるのは必然的です。
というのもこんな分割された目標が両方に同じようなを与えたからなのです。
しかし、こうしたことが可能になるとすれば、それは、心が 身体に限定され、その一つひとつは完全なすがたに見えるが、関連性のない小さな部分に分割された場合だけです。
これが 身体を傷つけることはありませんが、心のなかに妄想的な思考体系を保つことになるのは確かでしょう。
とすれば、ここにこそ癒しが必要とされています。
そして、ここにこそ確かに癒しはあります。
神は病気とかけ離れたところに癒しを与えたりしないし、病気があるはずのないところにその治療法を確立するようなこともしません。
その二つは一緒にあり、それを一緒にあると見たとき、真理と幻想の両方をそれがあるに相違ない心のなかに留めようとします
試みは、どれもみな幻想に心をささげているようなものだと気づくようになり、それを真理へともたらしたうえで、どんな点においてもどんな風にみても、真理とは全く和解できないものだとわかったら放棄することになります。
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真理と幻想にはなんの関連もありません。
これが永久に真実として残るのであり、どれほどあなたがその二つを関連づけようとしても、この真実は変わりません。
しかし、幻想どうしはいつも関連していおり、それは真理と同様に関連しています。
それぞれに結びついており、完全な思考体系を持ってはいても、お互いの関係は全く断たれています。
したがってこうしたことを知覚すると、どこに分離があり、どこが癒されなければならないのか、それに気づくことになります。
ある想念のもたらす結果というものは、決してその源から離れることはありません。
分離するという想念が 身体を産みだし、そのままつながりを保っており、心は 身体と一体感をもっているので、その 身体を病気にさせます。
あなたはこんなつながりを隠すことで、 身体を護っているものと思っています。
それはこうして隠しておくことで、自分の身元を真理の「攻撃」から安全に保ってくれるように思えるからです。
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もしあなたに、こんな奇妙な隠しかたをすることが自分の心をどれほど傷つけたか、またそのために、いったい自分が誰であるかが全く分らなくなっている、ということを理解できさえすればいいのです。
あなたには、自分の信のなさがいかにひどい状態をもたらしたか分っていません。
それというのも、信のなさはその結果が正当化されると思えるような攻撃のしかたをするからです。
信頼しないようにすることで、信頼に値しないものを目にすることになるので、障害になっているものを越えて、自分と一つに結びついているものを見つめることができないわけです。
〔19-1 癒しと信頼 (9~16) 〔奇跡のコース テキスト 日本語訳〕に続きます〕→
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念