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奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編10本文
10.判断は、どうやって放棄できるでしょうか
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判断すること、これは幻想から成る世界を維持している他の仕組みと同じように、この世界によって完全に誤解されています。
実際のところ、それは叡智と混同されていて、真理に取って代わるものと見られています。
この世界によるこの言葉を使い方によると、あるひとりの個人の判断が「良い」判断とか、「悪い」判断をすることが可能で、その人の教育は前者を強化し、後者を最小限度に抑えることを目指しています。
しかし、こうした分類が何を意味するのか、かなりの混乱が見られます。
ある人にとっての「良い」判断であることが、別の人にとっては「悪い」判断だということもあります。
さらに、同じ人でさえ、ある同じ行動を「良い」判断だと分類する時もあれば、「悪い」判断だと分類する時もあります。
それに、こうした分類を決めるのに首尾一貫した基準となるものは、実際には教えられません。
いつでも生徒は、「自称」教師がそれについて言うことに対して、同意しないことも有り得る上に、その教師自身、自ら信じていることについて矛盾していることもあります。
こういう視点からすれば、「良い」判断という言葉には何の意味もありません。
「悪い」判断という言葉にしても、同じことです。
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神の教師は、自分は判断するべきではないというよりも、自分は判断など出来ないのだということを悟る必要があります。
判断することを手放すとは、その人は単にそもそも自分のものではなかったものを手放すということに過ぎません。
その人は、幻想を手放すのです。
あるいはむしろ、手放すという幻想を持っていると言ったほうがいいでしょう。
その人は実際のところ、以前よりもっと正直になっただけのことです。
判断することは自分にとって常に不可能なことだったということに気づいて、もはやそれを試みようとはしません。
これは、犠牲を払うことではありません。
それどころか、その人は自分が判断するというより、むしろ自分を通じて判断が成されることが可能だ、という立場に自分自身を置くことになります。
したがって、こうした判断は「良く」もなければ「悪く」もありません。
それは存在するただ一つの判断であって、「神の子に罪は無く、罪は存在しない」、この唯一の審判だからです。
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私たちのカリキュラムが目指しているのは、この世界の学びの目標と違い、普通の意味でいう判断は不可能だ、と認識することです。
これは、一つの意見ではなく、事実です。
何事にせよ、正しい判断を下すためには、想像も及ばないほど広い範囲にわたる物事について、その過去、現在、未来に及んで充分に承知しておく必要があります。
それらのことついて、何らかの関わりがある人や物事、その一切全てに対して、自分が下す判断がどのような影響を及ぼすことになるか、その全てを前もって認識していなければなりません。
その上、自分の判断が現在、未来において影響を与える全ての人たちにとって全く公平になるように、自身の知覚に少しの歪みもないと確信を持っている必要があります。
一体誰が、こうしたことが出来る立場にいるでしょう。
尊大な空想を抱いている者以外の誰が、自分にこれが出来ると主張するでしょうか。
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あなたは今までに、判断に必要な「事実」は全部知っていると思っていたことが何度もあったのか、そして、そのあなたがいかに間違っていたかを思い出しなさい。
こんな経験をしたことがない人などいるでしょうか。
自分はただ正しいと思い込んでいて、間違っているとは少しも気づかずにいたことが、今まで何度あったか、あなたは分るでしょうか。
なぜあなたは、決断する時にそんな独善的な根拠を選ぼうとするのでしょう。
叡智とは、判断できることではなく、判断するのを放棄することです。
では、もう一度だけ判断しなさい。
それは、次のような判断です。
自分には、誰か完璧な判断ができる存在が自分と共にいます。
その存在は、過去、現在、未来を問わず全ての事実を知っています。
自分の判断に、何らかの関わりがある全ての人やあらゆる物事、どのように影響するのか、それがあるか、その一切を分っています。
そして、その存在は誰に対しても全く公平です。
それというのも、その存在の知覚は少しも歪んでいないからです。
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だから、惜しむことなく、感謝の吐息とともに、判断するのを手放しなさい。
かつて、あまりの重さに耐えかねて、ただよろめいて下敷きになるしかなかったような重荷から、今やあなたは解放されます。
そして、それは全て幻想でした。
ただそれだけのことです。
これで、神の教師は重荷を下ろして立ち上がり、身軽に歩んで行けます。
しかも、その人の得るところの恩恵はそれだけではありません。
気苦労という感覚がなくなっています。
なぜなら、その人には心配すること自体が何もなくなったからです。
その人は、それを判断することと一緒に手放してしまいました。
今、その人は、自分自身で判断する代わりに 聖霊の判断を信頼することを選択し、 聖霊に自分自身を委ねました。
その人は、今や何一つ間違うことはありません。
その人の導き手は、確実です。
そして、その人はかつては判断を下そうとしてきたところに、祝福するために来ます。
以前は、よくそこに来ては涙を流していた場所で、今は笑っています。
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判断することを放棄するのは、難しいことではありません。
しかし、それを保ち続けようとすることこそ、実際には難しいことです。
神の教師は、そうすることの対価に気づき次第、喜んで判断するのを捨て去ります。
その人が自分の周囲に見ている醜さは全て、判断をすることにから生じた成り行きです。
その人が目にしている苦痛は、どれも全て、それが及ぼした影響です。
色々な形で感じる全ての孤独や喪失感、去り行く時や、募る失望、胸が悪くなるような絶望や死の恐怖、こうしたことが全て判断から生じました。
今ではその神の教師は、こうしたことがこうである必要ないと分っています。
その中の一つたりとも、真実ではありません。
それは、その人はそうしたことの原因を手放したからです。
その人の間違った選択の結果でしかなかったそれらのものは、その人からは剥がれ落ちて消え去っていきました。
神の教師よ、この一歩があなたに平安をもたらしてくれるでしょう。
このことだけを望むのは難しいことでしょうか。
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