奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編16 本文
16. 神の教師はどのように一日を過ごすべきでしょうか
ACIM-Manual 16-1
進んだ神の教師にとっては、このような質問は無意味です。
学びは、その日その日で変化するので、プログラムというようなものはありません。
とはいえ、神の教師は、学びが行き当たりばったりに変化するわけではない、という一つのことだけは確信しています。
このことを見ているし、それが真実だとよく分かっているので、それに満足しています。
その人は、今日も明日も、毎日、自分が果たすべき役割を全て教えられるでしょう。
そして、その役割をその人と共に分かち合う者たちはその人を見つけ出し、それにより、その日学ぶべきことを共に学ぶことができます。
その人に必要な相手が、ひとりでもそこにいないということはありません。
また、その日にこそ学べる学びの目標があらかじめ定められていないまま送られてくる者は一人もいません。
それ故に、進んだ神の教師には、この質問は無要です。
それを尋ねられ、答えられているので、その人はその答えと絶えず接触を保っています。
その人には用意が出来ていて、目の前には、自分の歩む道が確実でなだらかに伸びているのを見ています。
ACIM-Manual 16-2
しかし、まだこのように確信が持てるところに達していない者はどうでしょうか。
その人たちはまだ、自分の役割について自分の枠踏みを設けずにいられるだけの準備は出来ていません。
一日を神に捧げるようになるには、その人たちは何をしなければならないのでしょうか。
それに当てはまる一般的なルールがいくつかあるとはいえ、それらは各自が自分なりにできるだけ適切なやり方で使う必要があります。
決まり切ったルールをそのまま日課とするようなことは、危険です。
なぜなら、日課それそのものが崇められる対象となりやすく、それが達成しようと設定されていたゴールそのものを脅かしがちになるからです。
大まかに言えば、一日をきちんと始めるのがよいということは言えます。
もし一日の始め方を間違えたとしても、いつでもやり直すことはできます。
しかも、時間を省くという点で、正しく始めることが利点があることはあきらかです。
ACIM-Manual 16-3
最初のうちは、時間の点から考えるのが賢明だと言えます。
これは、決して究極的な基準ではありませんが、初めはたぶんこれが一番易しく遵守できるものです。
時間を省くということは、初期段階では不可欠の強調点であり、これは学びの全過程を通して重要であり続けることに変わりはありませんが、先に進むにつれて徐々に強調されなくなります。
最初に、一日をちゃんと始めることに捧げた時間は、確実に時間を省くことになると言って差し支えありません。
そのために、どれくらいの時間を取ればいいでしょうか。
これは神の教師、本人次第に任されなければなりません。
ワークブックを最後まで学び終えるまで、神の教師という肩書きを自分のものと主張することは出来ません。
なぜなら、私たちはこのコースの枠組みの中で学んでいるからです。
ワークブックに含まれているような枠組みに沿った練習期間を完了した後は、主に個々人の必要が考慮されようになります。
ACIM-Manual 16-4
この奇跡のコースは、常に実用的です。
もしかすると、神の教師は目を覚ましてすぐ、静かな思いを心に抱けるような状況にいないということがあるかもしれません。
もし、そうだとしても、出来るだけすぐに神と共に時間を持つことを選ぼうとだけ忘れずにいて、そのようにすればいいのです。
そうした時間をどれくらい取るかは、それほど重要なことではありません。
一時間じっと目を閉じて座っても、何一つ達成されないということはよくあります。
ほんの一瞬、神に心を向けて、その一瞬に神と完全につながるということも同じく容易に起こりえます。
ひとつ一般論としては、次のように言えるでしょう。
目が覚めた後できるだけ早く静かな時間を持ち、それが難しく感じ始めた後も、一分か二分はそのまま続けることです。
その難しさが徐々に減少し、遠のいていくのに気付くかもしれません。
もし、そうならなければ、その時が止め時です。
ACIM-Manual 16-5
夜も同じ手順に従って行います。
もし、静かに過ごす時間を眠る直前に取れそうになかったら、その夜の比較的早めの時間それを行うといいかもしれません。
寝ころんでするのは賢明ではありません。
どのような姿勢であれ、あなたが好む姿勢で、きちん座ってするほうがいいです。
ワークブックを終了したあなたは、この点についてはすでに何らかの結論に達しているはずです。
しかし、もし出来るようであれば、眠る直線が、神に捧げるには望ましい時間です。
そうすることが、あなたの心を休息に適した状態にし、あなたを恐れから離れる方向に向かわせてくれます。
もしこの時間を早めにとるほうが都合のいい場合でも、眠る直前にもほんの短い時間、一瞬でもいいから目を閉じ、神について考えるわずかな時間を持つことだけは決して忘れないようにしなさい。
ACIM-Manual 16-6
とりわけ、一日中覚えておくべき一つの想念があります。
それは、純粋な喜びという想念であり、それはすなわち、平安という想念であり、限界のない解放の想念です。
限界がないというのは、全ての物事がその中では解き放たれているからです。
あなたは、自分で自分自身のために安全な場所を作り出したと考えています。
夢の中で見ている全ての恐ろしい物事の全てから自分を救える力を自分で作り出したとも考えています。
それは事実ではありません。
あなたの安全はそこにはありません。
あなたが放棄するのは、単に幻想を保護しているという幻想でしかありません。
そして、あなたの恐れているのはこれのことであり、ただ、これだけです。
何でもないものを、それほど怖がるとは、なんと馬鹿げたことでしょうか。
何も無いものでしかないものを、こんなにも怖れているとは、なんと愚かなことでしょう!
全くの無でしかないというのに!
あなたの防衛法が上手くいくことはありません。
しかし、あなたは危険にさらされているわけでもありません。
防衛など必要ないのです。
このことに気づきなさい。
そうすれば、それは消えてしまうでしょう。
そして、その時にこそ、あなたは真に自分を保護してくれるものを受け入れるでしょう。
ACIM-Manual 16-7
神の保護を受け入れた神の教師には、時間とは何と簡素に、しかも何と容易に過ぎ去っていくことでしょう!
それまで、安全のためにその人がしていたことは、もはやどれも全てその人の興味を引かなくなります。
というのも、その人は安全であり、また、自分が安全であるということが分っているからです。
その人には、決して失敗することのない導き手がついています。
その人は、自分が知覚している色々な問題に、何らかの区別する必要もありません。
なぜなら、それら全ての問題を抱えているその人が頼りにしている聖霊は、それらの解決について、その難しさに順序があると認めていないからです。
その人は幻想を自分の心に受け入れる前や手放した後と同じように、現在も安全です。
異なった時や異なった場所であっても、その人の状態はどんな違いもありません。
というのも、そうしたことは神にとっては全て同一であるからです。
これが、その人の安全性です。
そして、その人にとってこれ以上のことは必要ないのです。
ACIM-Manual 16-8
しかし、神の教師がこれから旅する旅路には色々な誘惑があるので、一日を通して自分は護られているということを自分自身に思い出させる必要があります。
どうすれば、それがその人にできるでしょうか。
特に、その人の心が外面的なものごとに囚われている時、どうすればいいのでしょうか。
それは、ただやってみるしかありません。
そして、上手くいくかどうかは、自分はきっと出来るというその人自身の確信にかかっています。
成功は自分がもたらすのではなく、自分がそれを呼び求める時には、いつでも、どこでも、どんな状況にあっても与えられるものとして、その人は確信していなくてはなりません。
時には自分の確信が揺らぐこともあり、それが生じた瞬間、その人は以前のやり方の自分のみに頼ろうとすることに戻ってしまうでしょう。
それは、魔術であることを忘れないようにしなさい。
そして、魔術とは、真の援助の粗末な代用品に過ぎません。
それは、神の子には不十分なので、神の教師にとっても不十分です。
ACIM-Manual 16-9
魔術を避けるということは、誘惑を避けるということです。
なぜなら、あらゆる誘惑は、ただ神の意志を他の意志で代用しようとする試み以外の何ものでもないからです。
こうした試みは、実際のところ恐ろしく思えるかもしれませんが、それは単に哀れなものであるに過ぎません。
それは何の結果ももたらしません。
良くも悪くもなく、報いをもたらすことも犠牲を要求することもなく、癒すこともなければ破壊するわけでもなく、安心させるわけでもなく恐れ抱かせるのでもありません。
魔術は、どれもみな単なる何も無いものと認識された時、神の教師は最も進歩した状態に達したことになります。
そこに達するまでの全ての学びは、ただそこまで導いていき、そのゴールを認識しやすくするだけです。
どのような魔術であれ、それがどんな種類の魔術であれ、それが為すことは全く何も無いものだからです。
その無力性こそが、それから容易に逃れられる理由です。
何の結果も生み出さないものが、恐れをもたらすことなど出来るわけがありません。
ACIM-Manual 16-19
神の意志に取って代われるものは何もありません。
簡単に言えば、この事実に対して神の教師は一日を捧げるのです。
実在だとしてその人が取って受け入れる代替品は、どれもただその人を欺くだけです。
しかし、その人自身は、もし自分でそう決断しさえすれば、あらゆる欺瞞から安全に守られます。
その人が覚えておく必要があるとすれば、それは「神は自分と共にいてくれる、私は欺かれることは有り得ない。」ということです。
あるいは、その人は他の言い方を好むかもしれません。
それとも、一言だけかもしれないし、一つもいらないかもしれません。
それでも、魔術を真実だとして受け入れたい誘惑はことごとく、その人が自ら見分けて、手放さなければなりません。
それが恐ろしいからとか、罪深いことだからとか、危険なことだからではなく、ただ無意味なことに過ぎないからです。
それは、一つの誤りの持つ二つの側面に過ぎないもの、すなわち犠牲と分離に根差しており、その人はただ、もともと自分が持ったためしが一度もないもの手放す選択をするだけです。
そして、こうした「犠牲」と引き換えに、天国がその人の自覚に戻ってきます。
ACIM-Manual 16-11
このような交換こそ、あなたの求めるものではないでしょうか。
この世界は、もしそれができると分りさえすれば、喜んでそうするでしょう。
それが出来るということを、神の教師たちが教えなければなりません。
だから、まずそのことを確実に学ぶことこそ、その人たちの機能です。
あなたが魔術を信用しない限り、一日中、どんな危険も有り得ません。
苦痛をもたらすのは、魔術への信用だけだからです。
「神の意志以外に意志はない」。
神の教師たちはこれが確かにそうだと知っていて、これ以外は何もかも全て魔術だということを学んでいます。
魔術を信じる信念の全ては、「それは効果がある」というたった一つの単純な幻想によって維持されています。
神の教師たちは、訓練中ずっと、毎日、毎時、毎分、そして時計の針が時を刻む毎に、いろいろな形の魔術を認識し、その無意味さを見て取ることを学ばなければなりません。
それらの形から恐れが取り除かれれば、それゆえにそれらは消えてなくなります。
こうして、天国の扉は再び開かれ、その天国の光が安らかな心をもう一度照らすことが出来るようになるのです。
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マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次