
奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編17 本文
17.神の教師たちは魔術的想念にどう対処するべきでしょうか
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これは、教師と生徒の両方にとって、極めて重要な質問です。
もし、この問題点が誤って扱われることになれば、神の教師は自分自身を傷つけ、生徒も攻撃していることになります。
こうしたことは、恐れを強め、両者にとって魔術的なるものを極めて実在性があるかのように見せます。
したがって、魔術にどう対処するかは、神の教師が十分に習得しなければならない主要な学びとなります。
このことに関してのその人の最初の責任は、それを攻撃しないということです。
もし、ある一つの魔術的な考えが、どのような形であれ怒りを想起するなら、その神の教師は罪を信じる信念を強めてしまっており、自分自身に有罪宣告をしたということは間違いありません。
それに、その人は、憂うつ、苦痛、恐れ、災いが自分に生じることを自分で求めたということも、確信していいことでしょう。
ということであれば、その人が教えたいのはこんなことではないと、その人に思い出させましょう。
なぜなら、その人が学ぼうとしているのは、そんなことではないからです。
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しかし、魔術を強めるような形でそれに応じたくなるような誘惑は確かにあります。
しかも、これは必ずしも常にそれとすぐ分かることとは言えません。
事実、それは容易に、助けになりたいという思いの背後に隠されてしまうことがあります。
こんな二重の願望が、そうした手助けをほとんど価値のないものにし、望ましくない結果をもたらさざるを得ません。
しかも、忘れてはならないのは、もたらされる結果は必ず教師と生徒の双方に影響を及ぼすということです。
何であれ、あなたが与えるものは自分自身に与えるだけだということは、今まで何度も強調されてきたことではないでしょうか。
そして、こうしたことは何よりも良くわかるのは、神の教師が自分の助けを必要としている人たちに差し出す手助けの種類として、何よりよく示されることではないでしょうか。
ここで、その人への贈り物が一番はっきりその人自身に与えられます。
それというのも、その人は自分自身のために選んだものだけを与えることになるからです。
したがって、この贈り物には、その人が聖なる神の子に対してどのような審判を下したかが現われます。
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誤りは、それが最も明白なところで訂正するのが一番簡単です。
そして、いろいろな誤りはそれがもたらす結果によって見分けがつきます。
真に教えられた学びは、一つの意図を分かち合った教師と生徒を、ただ解放に導くだけです。
攻撃が入り込めることがあるとすれば、それは別々のゴールについて知覚が進入することがあった時だけです。
そして、もし結果的に少しの喜びもなかったなら、事実そうしたことが起こったに違いません。
その教師のただ一つ目標は、生徒が分割された目標を一つの方向へと向かわせ、助けを求める呼びかけが生徒のただ一つの懇願となります。
そうすると、その懇願には、ただ一つの答えで容易に応じられることになり、この答えは確実にその教師の心に入ってきます。
そこから、それが生徒の心を照らし、その人の心と教師の心を一つにします。
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誰も事実そのものに対して腹を立てるということは不可能であると覚えておくことは、おそらく役に立つでしょう。
否定的な感情を抱くのはいつでも、事実をどう解釈するかです。
これは、たとえ事実のように見えている何かがそうした感情を正当化しているように思えたとしても、それとは無関係なのです。
また、引き起こされている怒りがどれほど激しいものかということも、関係ありません。
もしかすると、はっきりとは気づかない程度のほんの少しの苛立ちかもしれません。
また、あるいは、激しい激怒の形をとって、凄まじい思いが頭を横切ったり、目に見える形で行動に移されたりするかもしれません。
こうしたことは、問題にはなりません。
こうした反応は、どれも全て同じものです。
そうしたことは、全て真実を覆い隠すのであり、これは決して程度の差の問題とはなり得ません。
真実が明白であるか、そうでないか、そのどちらか一方でしかありません。
それが、部分的に認識されるといったことは有り得ません。
真実を自覚していない人であれば、幻想を見る以外にないのです。
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知覚された魔術的な想念に対する反応である怒りが、恐れの基本的な原因と言えます。
こうした反応が、何を意味するかよく考えてみなさい。
そうすれば、それがこの世界の思考体系の中心的な位置付けにあることが明らかになります。
魔術的な考えは、それが一つでもあるというだけで、神からの分離を認めていることになります。
それが、これ以上明らかにさせようがないほど明らかに伝えていることは、自分が神の意志に対抗できる別の意志を持っていると信じている心は、そうすること自分が上手くできるとも信じているということになります。
こうしたことは、全く事実では有り得ないということは明白です。
とはいえ、それが事実であるかの様に信じられるということも、同じように明白です。
それゆえに、ここにこそ、罪悪の起源があります。
神の座を奪って、それを自分のものにしようとする人には、今や致命的な「敵」がいることになります。
そして、その人はひとり自分を守らなくてはならず、決しておさまりそうにない憤怒と、決して満足することのない復讐心から、自分の安全を守るための楯を作り出さなくてはなりません。
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どうすればこうした不公平な戦いが解決され得るでしょうか。
その結末は、死に相違ないので、それが終わることは避けることは出来ません。
では、自分が防衛できることがあると信じることなど、どうして出来るでしょう。
またここで、魔術に助けてもらわなくてはなりません。
戦いは忘れてしまえ。
それを事実として受け入れておいて、それから、それを忘れてしまえ。
自分にはとても勝ち目がないということは思い出してはいけない。
「敵」が莫大であることは思い出さず、それと比べた自分の弱さについても考えてはいけない。
自分が分離していることは受け入れても、どうしてそうなったかは思い出してはいけない。
自分は戦いには勝ったと信じてもいいが、自分のすごい「敵」が実際にはどんな存在だったかについて少しでも覚えていてはいけない。
こうして、自分の「忘却」をその存在に投影することで、あなたにはその存在もまたそれを忘れてしまっているかのように思えてきます。
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ところが、こうなると、あらゆる魔術的な想念に対するあなたの反応はどんなものになるでしょうか。
それらは、それを隠していたけれど手放してはいない眠れる罪悪感を、再び呼び起こすことにしかなり得ません。
その一つ一つが、あなたの怯えた心にはっきりと言います。
「あなたは神の座を奪った、神がそのことを忘れたとは思ってはならない」、と。
ここに、神に対する恐れがもっともあからさまに再現されています。
なぜなら、そのような考えから、罪悪感は既に、狂気を神の玉座に据えてしまったからです。
こうなると、何の望みもなくなります。
殺すしかありません。
今や、ここに救いがあります。
腹を立てた父親が罪を犯した子を追いかけでいます。
殺すか、殺されるか、選択できるのはこれだけだからです。
これを以外選択はありません。
なぜなら、既に為されたことはもはやそれ無しでは済まされないからです。
染みついた血痕は決して取り除けず、この血痕を帯びている人は誰しも死ぬ以外ありません。
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この絶望的な状況に、神は教師たちを遣します。
その人たちは、神自らの希望の光を携えてきます。
そこから逃げ出せる方法はあります。
それを学ぶことも教えることも出来ますが、それには根気と有り余るほどの意欲を要します。
それさえあれば、この教えの明らかな単純さは、暗い地平線を背景にした眩い白い光のように、はっきりと浮かび上がります。
それは、まさしくそうしたものだからです。
もし、怒りが事実ではなくてそれをどう解釈したかで生じるとすれば、怒りは決して正当化されません。
たとえおぼろげにでもこのことが把握されたなら、道は開かれます。
今こそ、次の一歩へ踏み出すことが可能になります。
ついに解釈を変えることができます。
魔術的想念は、非難される必要はありません、
というのも、それらには実際に罪悪を生じさせる力などないからです。
したがって、それらを見過ごされ得るものであり、かくして真の意味で忘れることのできるものです。
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狂気は、恐ろしく思えるに過ぎません。
真理において、それは何かを作り出す力もありません。
そのしもべとなる魔術と同じように、それは攻撃することもなければ、護ってもくれません。
それを見て、それの思考体系を認識するということは、すなわち何も無いものを見るということです。
何も無いものが怒りを生じさせられるでしょうか。
出来はしません。
だから、神の教師よ、覚えておきなさい。
怒りとは、そこに存在していないものを、ある一つの現実として認識することの確かな証拠です。
しかし、その怒りは、あなたがそのことを事実だと信じているということの確かな証拠です。
こうなった時のあなたは、自分は自分自身で解釈したことに反応したのであり、その解釈は自分が外側の世界に投影したものだということが分かるまで、脱出不可能となります。
この残酷な剣を、今、あなたから取り除いてもらいなさい。
死は、存在していません。
この剣は、存在していません。
神に対する恐れは、無因のものです。
しかし、神の愛は、あらゆる恐れを超えるありとあらゆるものの原因であり、したがって、永遠に実在し、常に真実です。
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