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奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編18 本文
18. 訂正はどのように為されるのでしょうか
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永続性のある訂正、これだけが真の訂正ですが、それは神の教師が解釈と事実を混同したり、幻想と真理を混同したりすることがなくなるまで為されることはありません。
もし、その人が何らかの魔術的な考えについて自分の生徒と論議し、それを攻撃したり、その間違いを立証しようとしたり、その事実に反していることを論証しようとしたりするなら、その人はそうした考えが実在していると証言しているに過ぎません。
そうすると、憂鬱は避けられなくなります。
自分の生徒と自分自身に対して、実在するものから逃げることが自分たちに課せられた事、だと「証明」したことになるからです。
しかし、そのようなことは不可能です。
実在は、不変です。
魔術的な想念は、単に幻想に過ぎません。
そうでなければ、 救済もまた、昔ながらの不可能な夢が、形を変えただけのものに過ぎないということになります。
しかし、その 救済の夢は新たな内容です。
異なっているのは形だけではないのです。
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神の教師たちが学ばなければならない最も大切な学びとは、いかにして魔術的な想念に少しも腹を立てずに応じるか、ということです。
それを学ぶことによってのみ、その人たちは自分たちについての真理を宣言できるのです。
今や、その人たちを通じて、 聖霊は神の子の実相について語ることが出来るようになります。
こうして、 聖霊は世界に罪の無さを思い出させることが出来ます。
無罪性とは、神が創造したものは全てのものの状態であり、唯一不変の変更不可能な状態です。
今こそ、 聖霊は聞こうとする耳に神の言葉を語り、見える眼に キリストの心眼をもたらすことが可能となります。
今こそ、全ての心たちに心たちの本来の姿について、その真理を教えることが可能となり、それによって全ての心たちは喜び勇んで神のもとに戻っていきます。
そして今や、罪悪は、 キリストの視覚と神の言葉においては完全に見過ごされ、赦されます。
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怒りは、ただ「罪悪は実在する!」と鋭い叫び声をあげます。
この狂気の信念が、神の言葉の代わりとして受け入れられる時、実相は抹消されてしまいます。
そうなると、 身体の目が「見る」ことが出来て、 身体の耳だけが「聞く」ことが出来るということになります。
それの僅かな空間と微かな息づかいが、実在性の尺度となります。
そして真理は卑小で無意味なものとなります。
こうしたことの全てと、それに基づいている世界に対して、訂正はただ一つの答えを差し出します。
あなたは、解釈を真理と思い違いしているだけです。
そして、あなたは間違っています。
しかし、間違いは罪ではなく、実在はあなたの間違いでその玉座を奪われていません。
神は永遠に君臨し、神の法則だけがあなたとこの世界を支配しています。
神の愛だけが、存在する唯一のものであり続けます。
恐れは幻想です。
あなたは神に似たものだからです。
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したがって、癒すためには、神の教師は自分自身の間違いを全て訂正してもらうことが不可欠となります。
もし、その人が誰かに応答する時に、たとえほんの少しでも苛立ちを感じたなら、その瞬間即座に、自分が真実ではない解釈をしたとその人に認識させなければなりません。
その後、その人を内なる永遠の導き手に向かわせ、その存在にどう応答するべきかを判断してもらわなければなりません。
そうすれば、その教師は癒され、その人が癒されることで、その人の生徒も共に癒されます。
神の教師の唯一の責任は、自分自身のために贖罪を受け入れることだけです。
贖罪とは、訂正であり、あるいは誤りを取り消す、という意味です。
これが成し遂げられた時、神の教師は奇跡を行なう者となったと定義されます。
その人の罪は赦されていて、その人はもはや自分自身を咎めることはしません。
それなら、その人がどうして誰かを咎めることができるでしょうか。
そしてその人の 赦しが癒すことが出来ないような人など誰がいるでしょうか。
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