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奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編3本文
3.教えることのレベルとは何でしょうか
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神の教師たちには、教えることにおける特定のレベルというものはありません。
どのような「教え学ぶ状況」もそれぞれに最初は異なる関係から始まります。
しかし、その究極的なゴールは常に同じです。
すなわち、その関わりを、両者が神の子には罪はないと見ることができる神聖な関係とすることです。
その中で、その神の教師が何かを学ぶことが出来ないような相手は一人もいません。
それゆえに、教えられないような相手も一人もいないのです。
しかし、現実的に見れば、その人が全ての人に出会うことは不可能であり、全ての人がその人を見つけられることも出来ません。
だから、その計画には、それぞれの神の教師がきわめて具体的に接することになるひとり一人が含まれています。
救済には偶然の出来事など一つもありません。
出会うべき者たちは出会うことになります。
なぜなら、一緒に居ることでその人たちに神聖な関係になる可能性があるからです。
その人たちは互いに出会う準備が出来ています。
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教えることの最も単純なレベルはまったく表面的な事に見えます。
それは実に何気ない出会いだと思える事で成りたっています。
たとえば、明らかに見知らぬ者同士がエレベータに「偶然」乗り合わせる、ある子供がちゃんと目の前を見ていなくて「思いがけなく」ある大人にぶつかる、二人の学生が「たまたま」一緒に歩いて帰る、といったことです。
こうしたことは、偶然の出会いではありません。
そのどれもが、「教え学ぶ状況」におかれる可能性を含んでいます。
もしかすると、エレベータのなかで知り合いではないはずの者同士が互いに微笑みかけるかもしれません。
もしかすると、子供がぶつかった大人は、その子を叱ろうとはしないかもしれません。
また、もしかすると、学生たちは友達になるかもしれません。
一番何気ない出会いのレベルでさえも、たとえそれがほんの一瞬に過ぎないとしても、ふたりの人が別々の利害を抱かないことは可能です。
その一瞬で充分です。
救済は訪れたのです。
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普遍的なコースを教えることにいくつかのレベルがあるという概念は、時間の概念と同様、実相においては無意味だということを理解するのは難しいです。
一方の幻想が、もう一方の幻想をも可能にしています。
時間の中では、神の教師は一つの決断をしたことでこの世界について自分の心を変え始め、その人が新たな方向を教えるにつれて、その方向についてさらにもっと多く学んでいくように見えます。
時間についての幻想は既に触れましたが、教える事についての複数のレベルという幻想については、時間の場合とは何かが違っているように思えるかもしれません。
もしかすると、こうしたレベルが存在することが有り得ないということを実証する一番いい方法は、おそらくただ次のように言うことです。
すなわち、「教え学ぶ状況」のどのレベルも、贖罪のための神の計画の一部であり、神の計画は神自身の意志の反映であるから、その計画には何のレベルも有り得ない、と。
救済の準備はいつも準備が整っていて、常にそこにあります。
神の教師たちは様々な異なったレベルで働いていますが、その結果は常に同じです。
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「教え学ぶ状況」はいずれも、各自がその時点で相手から学べる最大のものを学ぶという意味で最大限のものです。
この意味において、そしてこの意味においてのみ、教えることに複数のレベルがあるという事を語ることがでします。
「レベル」という言葉をそのように使うとすれば、教えるという第二のレベルは、第一のレベルよりももっと持続的な関係で、その中においては、しばらくの間、ふたりの人間はかなり密度の濃い「教え学ぶ状況」に身を置き、その後、離れていくように見えます。
第一のレベルと同じように、こうした出会いは偶然ではなく、その関係が終わったように見えても、それは本当に終わったわけではありません。
ここでも、それぞれがその時点で学べる限りの最大のものを学んだということです。
しかし、出会った者は全ていつの日かまた会うことになります。
あらゆる関係は神聖なものになる運命にあるからです。
神は自分の子のことを思い違いしてはいません。
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教えることの第三のレベルは、いったん関わったらそれが生涯続くような関係において生じます。
こうした「教え学ぶ状況」においては、学ぶ機会を無限に提供するべく選ばれた学習相手がそれぞれに与えられています。
このような関係は概して僅かしかありません。
なぜなら、こうした関係が成り立つということは、そこに関わっている者たちが、教えと学びの間の釣り合いが実際に申し分ないような段階に、同時に達しているということになるからです。
といっても、これは双方が必ずしもそのことに気づいていると言う意味にはならず、事実、通常はそれが認識されていません。
双方はしばらくの間、互いに酷い敵対関係にさえあるかもしれないし、もしかするとそれが生涯続くかもしれません。
しかし、その人たちが学ぼうと決断すれば、申し分ないレッスンが目の前にあり、それを学ぶことも出来ます。
そして、その二人は、もしそのレッスンを学ぶ決断をするならば、つまずいたり失敗するとさえ思える教師たちにとっての救い主になります。
神の教師は一人たりとも自分に必要な助けを見つけ損なうということは有り得ません。
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