奇跡講座マニュアル編5. 癒しはどのようにして成し遂げられるのでしょう

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編5本文

 

5. 癒しはどのようにして成し遂げられるのでしょう

ACIM-Manual-5-1

癒しには、病気という幻想が何のためのものかについて、それを理解する必要があります。

これがなければ、癒しは不可能です。

 

5-(1)病気の目的と知覚されているもの

ACIM-Manual5-(1)-1

癒しとは、苦しんでいる者がもはや苦痛を味合うことに何の価値も見なくなった途端に達成されるものです。

苦しみが自分に何かをもたらすと考え、それもその何かは自分にとって何らかの価値あるものと思った者でなければ、一体誰が苦しみを選択しようとするでしょう。

その人は、それを大きな価値ある何かのために支払う僅かな対価だと考えているに違いないのです。

病気とは、ある一つの選択で、ある一つの決断だからです。

それは、弱さを強さだと間違って確信し、弱さを選択することです。

こうしたことが起きると、本当の強さは脅威と見なされ、健康は危険だと見なされます。

病気とは、神の子を父の玉座につかせようとして、狂気のうちに考案された一つの方法です。

神は、外側にあって獰猛な上に強力で、あらゆる力を自分のものにしておこうと躍起になっている、と見なされます。

神の死によってのみ、神の子が神を征服できるということになります。

 

ACIM-Manual-5-(1)-2

そして、この狂気の確信の中では、癒しは何を意味することになるでしょうか。

それは、神の子の敗北、そして人に対する父の勝利を象徴します。

それは、神の子が認識することを余儀なくされる直接的な形で、究極の挑戦を表すものです。

それは、その人が自らの「生命」を守るために、自分自身から隠しておこうとする全てを意味します。

もし、その人が癒されるなら、その人は自分の想念に対する責任があることになります。

そして、もし自分の想念に責任があるとすれば、その人は殺されることになり、自分がいかに弱くて哀れな存在であるかがその人自身によって証明されるでしょう。

しかし、もしその人が自ら死を選べば、その人の弱さはその人の強さということになります。

こうして、その人は神が与えようとするものを自分で自分に与えて、創造主の座を完全に横領したことになるのです。

 

5-(2)知覚の変化

ACIM-Manual-5-(2)-1

病気の無価値さが認識されるにつれ、その認識の度合いにちょうど比例して、必ず癒しが起こることになります。

「この状態には、自分に益になるものが何もない」と言いさえすれば、その人は癒されます。

しかし、これを言うためには、人は先ずいくつかのある事実を認識しなければなりません。

第一に、決断とは心に属するもので、 身体に属していないということは明らかです。

もし、病気がただの間違った問題解決法に過ぎないとすれば、それは一つの決断なのです。

そして、それが決断だとすれば、それを為すのは 身体ではなく心です。

これを認識することに対する抵抗は、とてつもなく大きいものとなります。

というのも、あなたが知覚している通りの世界の存在が、 身体が決断の主体であるということに依っているからです。

「本能」とか「反射神経」とかそれに類する用語からは、心に由来しない動因を 身体に与えようとする試みを表しています。

実際には、そうした用語はただ問題を述べたり説明したりしているに過ぎません。

問題には答えていないのです。

 

ACIM-Manual-5-(2)-2

病気ということは、「心が、 身体を用いて達成しようとする目的に即して下す決断」である、として受け入れることが、癒しの基盤となります。

しかもこれは、どのような形の癒しについても言うことが出来ます。

ある患者が、その通りだと決心すれば、その人は回復します。

もし、回復に逆らう決断をすれば、その人は癒されることはありません。

医者とは誰でしょうか。

それは、患者自身の心そのものに他なりません。

結果は、その人の決断する通りのもとなります。

特別な薬剤のいくつかがその人を助けるように思えますが、それでも、そうしたものはその人自身の決断に形を与えるだけのことです。

その人は、自分の望むことに明確な形をもたらすために、それらの薬剤を選択します。

すなわち、そうした薬剤がすることはそれだけで、他には何もしないのです。

実際には、それらは全く必要のないものです。

患者は、そうしたものの助けを借りず、ただ起き上がって、「私にはこれは何の役にも立たない」と言うことが出来ます。

速やかに治らないような病気の形態は、何一つありません。

 

ACIM-Manual-5-(2)-3

こうした知覚の変化のために、たった一つの必須条件とは何でしょうか。

それは、「病気は心に由来するものであり、 身体には何の関係もない」という認識だけです。

これを認識することの「代償」は、何でしょうか。

あなたが目にしている世界全体が、「代償」です。

なぜなら、この世界がもう二度と、心を支配するように見えなくなってしまうからです。

そう認識することで、責任はそれがあるべきところに置かれます。

すなわち、この世界にではなく、世界をありのままに見ているその人自身に戻されます。

その人は、自分で見ようとして選択するものを見ます。

それ以上でもそれ以下でもありません。

この世界は、その人に何もしません。

ただその人が自分で、世界が自分に何かをする、と考えただけです。

それに、その人もこの世界に対して何もしません、

というのも、世界とは何かについて、その人は誤って理解していたからです。

こうして、罪責感と病気、その両方から解放されることになります。

その二つは一つものであるからです。

しかし、こうした解放を受け入れるには、 身体は取るに足らないものだという考えが受け入れられるものとなっていなくてはなりません。

 

ACIM-Manual-5-(2)-4

この考えによって、苦痛は永遠に消えてなくなります。

しかし、この考えによって、創造についての混乱していることも全て去っていきます。

これは必然的なりゆきではないでしょうか。

一つの事柄について、原因と結果が本当に正しい順序で置かれるなら、学びは普遍化され、世界を変容させることになるでしょう。

一つの真の想念の転移価値には、終わりも限界もありません。

このレッスンの最終的な結果は、神を思い出すことです。

罪責感や病気、苦痛や災難、そして全ての苦しみには今や何の意味があるのでしょう。

そうしたことには、なんの目的もないので、ただ消え去ってしまいます。

そして、それと一緒にそうしたことが引き起こしたかに思えた結果も全て一緒に消え去ります。

原因と結果は、ただ創造を反映するのみになります。

歪曲も恐れもない正確な視座から見られる時、原因と結果が天国を再び確立します。

 

5-(3) 神の教師の役割

ACIM-Manual-5-(3)-1

癒されるためには、患者が自分の心を変えなければならないのだとすれば、神の教師は何をするのでしょうか。

その人が、患者の心をその当人に代わって変えることが出来るでしょうか。

当然、それはできません。

すでに自分の心を変える意欲を持つ者に対して、神の教師の役割はただ一緒に喜ぶことだけです。

その人たちも、共に神の教師になったのです。

しかし、癒しとは何なのか理解していない者たちのために、神の教師にはもっと具体的な役割があります。

こうした病人たちは、自分が病気を選んだことを分かっていません。

それどころか、その人たちは病気の方が自分たちを選んだものと信じています。

それに、この点については、その人たちの心は開かれていません。

身体がその人たちに何をすべきかを伝え、その人たちはそれに従っています。

こうした考えが、いかに気違いじみたことか、その人たちには思いもよらないのです。

もし、その考えの信憑性を疑うだけでも、その人たちは癒されるでしょう。

しかし、その人たちは何一つ疑ってはいません。

その人たちにとっては、分離状態はきわめて全くの実在性のあるものなのです。

 

ACIM-Manual-5-(3)-2

神の教師たちは、その人たちのところにきて、その人たちが忘れているもう一つの選択があるということを示すものとなります。

ある一人の神の教師がただそこにいることで、そのことを思いださせます。

その教師の想念は、患者が実在すると受け入れてきたものを疑問を投げかけさせて欲しい、と求めます。

神の使者として、その教師たちは 救済を象徴するものとなります。

そして、彼らはその患者に、神の子自身の真の名において神の子を赦すようにと求めます。

神の教師たちは、もう一つの選択肢を象徴しています。

神の教師たちは、心に神の言葉を抱き、病める人たちを癒すためではなく、神から既に授けてられている治療法を思い出させるために、祝福とともに訪れます。

神の教師たちの両手が、癒すのではありません。

その教師たちの声が、神の言葉を話すのでもありません。

彼らはただ、自分たちに与えられたものを与えるだけです。

彼らは、兄弟たちに死から背を向けるように、とそっと優しく呼びかけるのです。

「神の子よ、生命があなたに何を差し出しているのか、よく見て欲しい。これの代わりに病気になることを選択したいだろうか」と。

 

ACIM-Manual-5-(3)-3

進歩した神の教師たちは一度たりとも、兄弟たちが信じている病気の形態を考慮したりはしません。

それをすることは、「あらゆる病気には、そのどれにも全て同じ目的があり、実際には何の違いもない」ということを忘れることです。

彼らは、神の子は苦しむことがあり得ると信じてしまうほど自分自身を欺こうとする兄弟の中に、神の声を捜そうとします。

そして、兄弟には、自分で自分を作ったのではなく、今も神に創造されたままの自分であるはずだ、ということを思い出させます。

その教師たちは、幻想は何の影響力ももたらさないと認識しています。

その教師たちの心の内なる真実が、その兄弟たちの心の内なる真実へと達するので、幻想が強化されることはありません。

こうして、幻想が真理へともたらされるのであって、真理が幻想へともたらされるのではありません。

しかも、こうした幻想は、他者の意志によってではなく、一なる意志そのものとの一つに結ばれることによって、払いのけられるのです。

そして、これが神の教師たちの役割です。

すなわち、彼ら自身の意思から分離した意思を見ず、自分たちの意志も神の意志から分離したものとしては見ない、ということです。

 

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編の目次

マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

 

スポンサーリンク

関連記事

目次

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る Top