Contents
奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編1本文
1.神の教師たちとは誰のことでしょうか
ACIM-Manual-1-1
神の教師になることを選択する者ならば誰であれ神の教師です。
そのための資格はただ一つ、その人が「なぜか、どこかで、自分に利害を他人の利害から離れたものだとは見なさない、という意図的な選択をした」ということだけです。
いったんこの選択をしたら、その人の進むべき方向は確実なものとなり、歩むべき道は定まります。
光が闇に射し込んだのです。
それは一条の光かもしれませんが、それで充分です。
たとえまだ神を信じてはいないとしても、その人は神とある協定を結んだということです。
その人は救いをもたらす者となりました。
神の教師となったのです。
ACIM-Manual-1-2
神の教師たちは世界中からやって来ます。
あらゆる宗教からも、無宗教からもやって来ます。
こうした者たちは応えた者です。
呼びかけは普遍的なものです。
その呼びかけは、あらゆる時、あらゆる所で続いています。
その呼びかけを代弁して、この世界を救うようにと、教師たちに呼びかけています。
多くの者がそれを耳にしますが、応える者はわずかしかいません。
しかし、それもすべては時間の問題です。
誰もがみな最後には応えることになります。
しかし、その最後は遥か遠い先のことになり得ます。
こうした理由で、教師の計画が定められたのです。
その教師たちの役目はそうした時間を省くことです。
一人ひとりが一条の光として始まるのですが、呼びかけがその中心にあるので、それは制限されることのない光です。
そしてその一人ひとりが、この世界が判断するところの一千年にも相当する時間を省くことになります。
その呼びかけそのものにとっては、時間は何の意味もありません。
ACIM-Manual-1-3
神の教師の一人ひとりにひとつのコースがあります。
そのコースの形態は極めて多種多様です。
しかも、使用される特定の教えも同じく極めて違いがあります。
しかし、コースの内容そのものは決して変わることはありません。
その中心的テーマは常に、「神の子に罪はなく、その無垢性の中に 救済がある」ということです。
このことは行動で教えることもできれば、想念で教えることも出来ます。
言葉で語ってもよく、言葉を使わなくてもいいのです。
どの言語を使ってでも、あるいはまったく言語使わなくても、また、いかなる場所やいかなる時間においても、いかなるやり方によってでも、教えることが出来ます。
呼びかけを耳にする前は、その教師がいかなる者であったのかということは関係ありません。
その人は応えたことによって、救い主となったのです。
その人は、誰か他の者を自分自身と見なしたのです。
したがって、その人は自分自身の 救済と、この世の 救済を見いだしたのです。
その人が再生したことで、世界は生まれ変わるのです。
ACIM-Manual-1-4
これは特別なカリキュラムのマニュアルであり、普遍的なコースの特別な形の一つを教える教師を対象にしています。
そうした教えには他にも幾千もの他の形態があり、それらの全てがどれもみな同じ結果をもたらします。
どれも全て、ただ時間を省くだけのことです。
とはいえ、その時間だけが気だるく流れ続けていて、今この世界はかなり疲れています。
衰え、やつれ果て、希望を失っています。
結果について疑れたことは一度としてありません。
神の意志を変えられることは出来ないからです。
しかし時間は、それに伴う変化と死についての幻想の数々により、この世界とその中にある全ての物を疲弊させています。
ところが、時間には終わりがあります。
それをもたらすことが、神の教師たちの任務です。
時間はその人たちの手の中にあるからです。
それがその人たちの選択だったので、その人たちにはそれが与えられているのです。
奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編の目次
マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次