奇跡講座テキスト編12章12-1聖霊による判断

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編12章 「 聖霊のカリキュラム」より

 

12章12-1  聖霊による判断

ACIM-Text- chapter12-1-1

あなたは、間違いを真実だとしないでおくようにと言われており、これを行うやり方は極めて簡単です。

もし、間違いを信じたいと望むのなら、それは真実ではないので、それを真実だとする必要があるでしょう。

しかし、真理はそれ自体で真実のものであり、その真理を信じるために何一つする必要はありません。

あなたが、何に対して応じるにせよ、それそのものに直接応じるのではなくて、それに自分なりの解釈をして応じるのだということを理解しなくてはなりません。

したがって、自分の解釈が、その応答の仕方を正当化する理由になります。

それ故に、他の人の動機などを分析するのは、自分にとって危険なことです。

もし、あなたが誰かが本当に自分を攻撃したり、見捨てたり、奴隷にしようとしているものと、自分自身決めこんでしまうなら、あなたはあたかもその人が実際にそれをしたものとして、それに応じるでしょう。

その人の間違いを、自分にとっては本当のことだとしてしまっているからです。

間違いを解釈するとは、それに力を与えるということになり、それをすれば真理を見落とすようになるでしょう。

 

ACIM-Text- chapter12-1-2

自我が何かをしようとする動機を分析することは極めて複雑であり、とても分かり難いです。

そのうえ、自分自身の 自我が関与しないということは決してありません。

その全てのプロセスは、あなたには自分で知覚するものを理解する能力がある、と実証しようとする試みであることを明らかに表しています。

これは、自分の解釈がまるで正しいことであるかのように、あなたがそれに反応するという事実が示しています。

そのあと、自分の反応を態度には出さないかもしれませんが、気持ちのうえでは抑えられないでしょう。

これが、自分の心が完全な状態にあるのを分裂させ、攻撃したりすることになるのは明白であり、そうした心の中の一段階を他のと戦わせることになります。

 

ACIM-Text- chapter12-1-3

動機についての解釈で、何らかの意味をなすといえるものが一つだけあります。

そして、それは 聖霊の下す判断であり、あなたには全く何の努力も要しません。

愛に満つる思いは一つ残らず真実です。

他のものは、何もかもそれがどんな形であれ、ことごとく癒しと助けを求める嘆願です。

誰にせよ、ある兄弟が助けをもとめて訴えているのに、それに怒りで応じるのを正しいことだとしてもらえるでしょうか。

快くその助けを与える気になる以外には、どんな応じ方も適切では有り得ません。

その兄弟が求めているのは助けであり、ただそれだけだからです。

それ以外のものを差し出すなら、その兄弟の実在をあなたの都合のいいように解釈して、自分にはそれを攻撃する権利があると勝手に思っていることになります。

おそらく、これがあなた自身の心にとって危険なことだとは、まだ十分に明らかではないのでしょう。

もし、助けを求める嘆願を何か他の事だと信じるなら、その他のことに対して反応するようになります。

したがって、あなたの実在そのものに対する応じ方は適切とは言えず、その実在を自分で解釈したことに対してはそうではありません。

 

ACIM-Text- chapter12-1-4

助けを求める呼びかけを、すべて全くそのままあなたが認めるのを妨げるものは何もありません。

あるとすれば、それは自分で攻撃する必要があると想像したことしか考えられません。

ただ、これがあなたに実在との「戦い」にいつまでも従事する気にさせるに過ぎず、その間そうした実在を真実でないとすることで、実際のところ癒しの必要はないと否定しています。

あなたはこれをするはずがありません。

もしそれをするとすれば、実在をあるがままに受け入れる気になれないからだとしか考えられず、その結果、その実在を自分自身に与えずにおくことになります。

 

ACIM-Text- chapter12-1-5

自分に理解できないことを裁いたりしないようにと言い聞かせるのは、確かにいい忠告です。

何かに対して、個人的に期待しそれに投資する者は、誰一人頼りになる証人とは言えません。

その人が自らそうであって欲しいと思うことが、その人にとっての真理となっているのです。

もし、あなたが助けを求める訴えをあるがままに知覚する気になれないとすれば、それは自分から助けを与えたり、受け取ったりする気持ちになれないからです。

助けを求める呼びかけに気づくことができないということは、助けを拒否するということです。

あなたは、自分には助けなど必要ないといい続けるつもりなのでしょうか。

兄弟の哀訴を認めず拒否するのなら、そうした気持を持ち続けることになります。

なぜなら、そうした訴えに答えることによってのみ、自分も助けを得ることができるからです。

その兄弟に手助けを拒むなら、あなたは自分に対する神の答えに気づかないでいることになります。

聖霊は、動機づけを解釈するのにあなたの助けを必要とはしませんが、あなたには 聖霊の助けが必要です。

 

ACIM-Text- chapter12-1-6

ただ、真価を認めるということこそ、あなたの兄弟に対する相応しい応じ方です。

その兄弟の愛に満る思いと、助けを求める哀訴に対して感謝の意を表すべきです。

もし、そうした思いや訴えを正しく知覚するなら、それによってあなたは愛を自覚するようになれるからです。

あなたの気がいつも張っているのは、まさにそうしたことをしないようにと気を使っているからです。

それでは、神の救いの計画とは何と簡単なものでしょう。

実在に対する反応は一つしかありません。

それというのも、実在は全く心の葛藤など呼び起こさないからです。

実在が何なのか理解し、それについて教える教師は一人しかいません。

実在は変わらないので、その教師が実在について自らの御心を変えることはありません。

あなたの心が、分割された状態において自分で実在について解釈することは無意味です。

しかし、その教師の解釈は一貫して真実のままです。

そうした解釈は、確かにあなたのためなので、教師はそれをあなたに与えられます。

自分のやり方で、兄弟の「手助け」をしょうと試みたりしてはなりません。

なぜなら、あなたは自分自身を助けることさえできないからです。

しかし、その兄弟が神の援助者を呼んでいるのを聞きなさい。

そうすれば、あなたも自分には父が必要だと気づくことでしょう。

 

ACIM-Text- chapter12-1-7

あなたが兄弟に必要な物事について解釈するということは、自分のを解釈しているということです。

手助けすることで、自分がそうした助けを求めているのです。

もし、あなたが自分自身の中に必要なものを一つだけ知覚するなら、あなたは癒されるでしょう。

というのも、神の答えが、自分の望む答えと同じだと気づくようになるからです。

もし、あなたが実際にそれを望むのなら、それは本当に自分のものになります。

誰かの訴えに、あなたが キリストの名において答える度に、父の記憶がだんだん自分に戻ってきます。

それなら、自分にとって必要なもののためにこそ、助けを求める呼びかけを一つ残らずあるがままに聞き入れることです。

そうすれば、神があなたに答えてくれることができるのです。

 

ACIM-Text- chapter12-1-8

他者の反応について 聖霊がする解釈を、もっともっと一貫して適用することで、あなたはその 聖霊が使う基準は自分にも同様に当てはまるということを、ますます自覚するようになります。

恐れに気づくことで、それから逃れるにはそれで十分だとは言えません。

もっとも、そうした認識は、逃れる必要があることを実証するためになくてはならないものです。

聖霊は、さらにその恐れを真理へと変えなければなりません。

あなたが一旦恐れに気づいたとしても、その恐れを抱き続けることになるとすれば、それの実態に向かって歩むかわりにそれから一歩退いていたことでしょう。

けれども、 自我を取り消すために非常に重要な一歩としては、恐れに気づき、それに欺かれずに面と向かうことが必要だと繰り返し強調しておきました。

他の者たちの動機について 聖霊の与える解釈が、ここで何とうまくあなたの役に立つかよく考えてみなさい。

他の者たちの愛に満る思いだけ受け入れ、それより他のものはどれもみな助けを求める哀訴だとみなすようにと教えることで、 聖霊はあなたに恐れること自体が助けてほしいという訴えだと教えました。

これこそ、恐れに気づくという本当の意味です。

あなたが、それを護らないのなら 聖霊が解釈し直してくれるでしょう。

それが、攻撃を愛への呼びかけだと知覚することを学ぶ究極的な価値です。

すでに学んだことですが、恐れと攻撃とを結びつけて考えるのは必然的なことです。

もし、攻撃だけが恐れを生み出すものであり、攻撃は助けを求める呼びかけと見るなら、確かに恐れは実在しないものだと分ってくるに違いありません。

なぜなら、恐れは確かに愛への呼びかけだからです。

それは、否定している何かを無意識のうちにも認めているということです。

 

ACIM-Text- chapter12-1-9

恐れは、あなた自身が何かを失っているという痛切な思いを抱いているしるしと言えます。

もし、あなたがそうした恐れを他の者たちの中に知覚して、失っているものを補うようになるなら、恐れの基本的な原因は取り去られます。

そうすることで、自分の中に恐れは存在しないと自分自身に教えます。

そうした恐れを取り去る手段は自分自身の中にあり、それを与えることによって、こうしたことを実証しています。

あなたに持てる感情は、ただ恐れと愛だけです。

恐れは否認することから作られたので真実ではなく、その否認は、恐れが存在するために否定されているものを信じているということに依存します。

恐れは、それで覆っているとはいえその下にある信念を実証的に肯定するものだと正しく解釈することにより、そうした恐れを役に立たないものにすることになり、それには有用性があると見なされているのを、次第にそうとはいえなくさせることになります。

全く役に立たない防衛法は自動的に放棄されます。

もし、あなたが恐れで隠しているものをきっぱりと優勢な立場に掲げるなら、恐れは無意味なものになります。

恐れは愛を隠すことが唯一の目的だったのであり、あなたがそれにそのような力はないと否定したことになるのです。

あなたが愛の面前に引いていたベールはなくなったのです。

 

ACIM-Text- chapter12-1-10

愛がこの世界の実在であるのは確かであり、もしあなたがその愛を見てみる気があるのなら、愛に逆らおうとする防衛手段の一つ一つに、その下には愛への哀訴が潜んでいると気づくということ以上にいいやり方があるでしょうか。

そして、その実在について学ぶには、そうした愛を求める訴えに、それを与えることで答える以上によく学べる方法があるでしょうか。

恐れについての 聖霊の解釈が、そうした恐れを確かに拭い去るというのも、真理についての自覚は否認されるはずがないからです。

こうして、 聖霊は恐れを愛に置き換え、間違いを真理へと変えます。

またそのようにして、あなたは自分の分離の夢を、調和しているという事実に置き換えるやり方を、 聖霊から学ぶことになります。

分離するとは、そうした調和を単に否認するということに過ぎないので、正しく解釈されれば、調和しているのは真実であると、あなたが永遠にわかっているということを立証するのです。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編12章 「 聖霊のカリキュラム」目次

12-1   聖霊による判断

12-2  神を思い出す道

12-3  実在に思いの投入すること

12-4  求めることと見いだすこと

12-5  正気のカリキュラム

12-6   キリストの心眼

12-7  内面を見る

12-8  愛を引き寄せる愛の魅力

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

スポンサーリンク

関連記事

目次

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る Top