〔奇跡講座テキスト編18章6 身体を超えて(5~8)〕からの続き
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身体というものは、あなたの外側にあるのですが、あたかもあなたをとり囲み、他の者から切り離し、その人たちからあなたを引き離し、その人たちをあなたを隔てているように見えています。
それはそこには実在してはいません。
神と神の子のあいだを防壁は何もないし、神の子が神ご自身から離れることはあり得なません。それができるのは幻想のなかです。
これは、たとえ自分で真実だと信じていようとも、神の子の真実のすがたではないのです。
しかも、これは、もし神が間違っていたのでない限り、そのようなことはあり得ません。
それを可能にするには、神は異なったやり方で創造し、ご自身を神の子から分離させなければならなかったはずです。
あれこれ違うものを創造したり、異なった実在のありかたを構築しなければならなくなり、ただその中のいくつかのレベルのみが愛であるということになってしまいます。
しかし、愛は永遠に愛そのものでなければならなく、永遠に変わらず、永遠に代用になるものを持つことないもののはずです。
そしてそれは、たしかに、その通りのものです。
あなたは自分のまわりに防壁をおくことなどできません。
なぜなら神は、ご自身とあなたとのあいだに何の防壁も置かれなかったからです。
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あなたは手を伸ばせば天国に達することができます。
きょうだいと手をたずさえた者は、 身体を越えたものを得ようとし始めています。
しかし、それはあなた自身の外側のものではなく、あなた方が一緒に分かち合っている真のアイデンティティーに達しようとしている場所です。
それがあなたの外側に有り得るでしょうか。
神が居ない外側にあるというのでしょうか。
神が 身体でしょうか。
そして、神はあなたを、ご自身とは違うものとしてご自身が存在できない場所に創造したでしょうか。
あなたはただ神にのみ囲まれています。
神に抱かれている者に、どんな限界が有るというのでしょうか。
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だれもがみな、自分というものを越えたところに運ばれているような感覚とよべる経験をしたことがあるはずです。
こうした解放感は、特に特別な関係のなかで期待されるような自由の夢を、はるかに凌ぐものです。
それは実際に制限から脱出したという感覚です。
もしあなたがこの「運ばれること」が本当に何を意味するかよく考えてみれば、それは突然 身体を意識しなくなり、自分自身と何か他のものとが一つになり、そのなかで自分の心が拡張していって、その何かを包み込んでしまうところまで拡大する体験だとわかるでしょう。
あなたがその何かとつながるにつれて、それはあなたの一部となります。
そしてどちらも分離されたものとは知覚しなくなるので、両者は全一となるのです。
実際には何が起こるのかというと、あなたが意識の制限されている幻想を放棄し、一つに結ばれることに対する恐れを失ったということです。
その瞬間のうちにそれに取って変わる愛は、あなたを自由にするものへと拡張していき、それと一つになります。
そしてこうしたことが続いている間、あなたは自分がなんであるか確信がないということはないし、その真のアイデンティティーを制限するようなこともないでしょう。
あなたは実在について何の疑問も発することなく、ただそれを受け入れることで、恐れから脱出し心の平安を得たのです。
あなたはこれを 身体の代わりに受け入れたのであり、ただ自分の心をからだに制限させないようにすることで、そのからだを越えた何かと自分自身を一つにさせたのです。
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こうしたことは、あなたとあなたがつながるものとのあいだに物質的な離たりがどれだけあるかとか、空間におけるめいめいの位置とか、大きさや外見上の質の違いなど、そうしたことにかかわらず起こり得ます。
時間は問題とはならず、それは何か過去のことでも、現在または予期していることにでも起こり得ます。
この「何か」は何であろうと、どこにあろうとかまわないのです。
ある音や景色でも、ある思いや記憶していることでも、具体的な内容のない一般的想念であるかもしれません。
しかも、どの場合でも、あなたはそれを愛し、それとともに在りたいという理由で、ためらいなくそれとつながります。
だから、あなたはそれを出迎えるようと大急ぎで駆けつけ、自分の限界を文字どおり溶解させ、自分の 身体が従う「法則」をすべて中断させて、そっとわきに退けるでしょう。
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この脱出に際しては、いかなる暴力もともないません。
身体が攻撃されることはなく、単に正しく知覚されるにすぎません。
身体があなたを制限することはありませんが、それというのもただあなたがからだに自分を制限させようとしないからです。
あなたは実際に 身体から「外へと引っ張り上げられる」のでもありません。
身体があなたを封じ込めておくことなどできないのです。
あなたは本来の自己の意識を失うのではなくて、それを得て、自分の居たいと望むところに行くことになるのです。
物理的束縛から解放されるこうした一瞬には、聖なる瞬間に起こるような多くのことを経験します。
すなわち、時間と空間という障害が取り除かれること、平安と喜びを突然体験すること、そしてなによりも、 身体の自覚がなくなり、こうしたことが可能かどうかと疑問がなくなること、などです。
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それはあなたが望むことなので、可能となります。
あなたの切なる願いに伴って、突然自覚が拡張しはじめることが起こりますが、これこそ聖なる瞬間が持つ抗しがたい魅力です。
聖なる瞬間は、あなたに、まるで大きな胸に抱かれたような安心感のなかで、本来の自分になるようにと呼びかけます。
それは心の開放と自由になるようにとあなたを迎えるため、そこでは限界の法則はあなたから取り去られています。
平安のうちに本来の自分になれるこの避難所に来なさい。
破壊によらず、突破するのでもなく、ただ静かに溶け込むことによって、ここに来なさい。
平安がそこであなたに加わることになります。
それは単に、自分でその愛に課した限界を手放すことを厭わず、愛からの優しい平安への呼びかけに答えて、それに導かれたるまま愛が在るところで、愛につながったからです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第18章「過ぎ行く夢」目次