奇跡講座マニュアル編7. 癒しは繰り返し行われるべきでしょうか

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編7本文

 

7. 癒しは繰り返し行われるべきでしょうか

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この質問の答えは、実のところ、自ずと答えがでています。

癒しを繰り返すことは出来ません。

もし、患者が癒されているのなら、癒されるのが必要な他の何がその人に残っているというのでしょう。

そして、既に述べたように、癒しは確実なことだとすれば、何を繰り返すことがあるというのでしょう。

神の教師が、癒しの結果について心配し続けるとすれば、癒しを制限していることになります。

そうなるとすれば、癒される必要があるのは、神の教師自身の心ということになります。

そして、その人自ら押し進めなければならないのは、この癒しです。

今や、その神の教師が患者であり、自分自身をそうみなさなければなりません。

その人は、間違いを犯したので、それについて自分の心を変えようとする意欲を持たなくてはなりません。

その人に、真に与えることを可能にさせる信頼が欠けていたので、その人は自分がまだ贈り物からの恩恵を受け取っていないのです。

 

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神の教師が癒しを伝えるための道具になろうとした時には、いつでもその人は成功してきました。

このことを疑ってみたくなったとしても、自分が既にやってみた努力を繰り返すべきではありません。

それが既に最大限のものだったのです。

というのも、 聖霊はそれをそのように受け入れた上で、そのように使ったからです。

今こそ、その神の教師が従うべき道は一つしかありません。

自分の理性を働かせて、「失敗するはずのない存在にすでに問題は預けている」と自分自身に言い聞かせる必要があります。

そして、自分自身の抱いている不確かさは、愛ではなくて恐れであり、したがって、それは憎しみだということを認識しなければなりません。

こうして、その人の不確かさは保ち続けられることが出来なくなります。

それは、愛を差し出した相手に憎しみを差し出していることになるからです。

これは不可能なことです。

愛を差し出したからには、愛しか受け取ることは出来ないのです。

 

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このことは、神の教師は信頼しなくてはならないことです。

これこそ、「奇跡を行なう者のたった一つの責任は、ただ自分自身のために贖罪を受け入れることのみである」という言葉が本当に意味していることです。

神の教師は、自分の受け取った贈り物を与えるからこそ、奇跡を行なう者なのです。

ただ、自分がまず先にそれを受け入れなければなりません。

それ以上する必要はなく、それ以上のことも出来ません。

癒しを受け入れることで、それを与えることが出来ます。

もし、その人がこのことを疑うようなら、いかなる存在がその贈り物を授け、誰がそれを受け取ったのか、それをその人に思い出させる必要があります。

こうして、その人の懸念は訂正されます。

その人は、神からの贈り物は取り上げられることが有り得ると思っていました。

それは間違っていたのですが、その間違いとともに留まり続ける必要はありません。

したがって、神の教師に出来ることは、ただそれをありのままに認識して、自分のために訂正してもらうことだけです。

 

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誘惑だと認識するのが最も難しい誘惑の一つは、症状が続いているように見受けられるために、癒しを疑いたくなることであり、これは信頼の欠如という形で起こる誤りです。

とすれば、これは攻撃していることになります。

普通これは、その真反対のように思えます。

案じ続けることが攻撃することだと言われたら、最初のうちは確かに理不尽なことのように思えるはずでしょう。

それは、どこから見ても愛であるかのように見えます。

しかし、信頼のない愛は不可能であり、疑いと信頼を共存されることなど出来ません。

そして、憎しみはどんな形を取っていようとも、愛とは正反対のものに相違ありません。

贈り物を疑わずにいなさい。

そうしたなら、それが及ぼす影響を疑うことなど不可能です。

この確信が、神の教師たちに奇跡を行なう力を与えます。

というのも、その人たちが神に信頼を置いたからです。

 

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解決のために神の教師に与えられた何らかの問題の結果について疑おうとするものがあるとしたなら、その真の根拠は常に自己不信です。

そして、それは必然的に幻想としての自己に信頼を置いてしまっていることを意味します。

そのような自己だけが、疑いの対象となり得るはずだからです。

こうした幻想は様々な形を取り得ます。

そこには、弱さとか傷つきやすいに対する恐れがあるかもしれません。

力が不十分であるという感覚に伴っての失敗や恥を恐れる気持ちがあるかもしれません。

もしかすると、偽りの謙遜から生じる後ろめたい当惑かもしれません。

間違いがいかなる形態で表れているかは重大ではありません。

重要なことは、ただ間違いを間違いだと認識することだけです。

 

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間違いは、必ず患者を除外して、何らかの形で自分だけに関する懸念するという何らかの形です。

これは、その人を真の自己の一部だと気づき損ねており、そのためにアイデンティティーに関する混乱を表しています。

あなたの本性についての葛藤が心に入り込み、あなたは自分自身について欺かれてしまったのです。

そして、あなたが自分自身について欺かれている理由は、あなたが自分を創造した源を否定したからです。

もし、あなたが癒しだけを差し出しているのなら、疑うことは出来ません。

もし、あなたが本当に問題の解決を望むなら、疑うことは出来ません。

もし、何が問題なのか確信があったら、疑うことは出来ません。

疑いとは、葛藤する複数の願いから生じるものです。

自分が何を望んでいるかを、はっきりさせなさい。

そうすれば、疑うことは不可能になります。

 

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編の目次

マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

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