奇跡講座テキスト編17章17-3 過去の影

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編17章「癒しと神聖な関係」17-3本文

 

17章17-3 過去の影

ACIM-Text- chapter17-3-1

赦すということは、単に過去において自分が与えたり、受け取ったりした愛に満る思いだけを覚えておく、ということに過ぎません。

他の事は全部忘れなければいけません。

赦しとは、慎重に選んだことを覚えておくことですが、それは自分の選択に基づいてではありません。

あなたが不滅のものにするつもりでいる影の姿は実在の「敵」だからです。

本人がしていないことについて、神の子を赦す気持ちになりなさい。

影の姿をしたものとは、あなたが神の子がしてもいないことをしたように証明するために連れていく証人です。

自分で連れていくので、あなたはその証言を聞き入れるようになります。

自ら選んでそうした影の姿を留めておこうとする者は、そのようなものがどうして自分の心に思い浮かんだのか、それに何が目的なのか理解できずにいます。

そのような影の姿はあなたが自分にされたと思い込んでいる邪悪を象徴します。

そうした影の姿を連れだして、邪悪には邪悪で報いるしかないということにし、その証言を聞いていると他の人に罪が有ると思えて、自分自身を傷つけずに済むようになることを望んでいます。

影の姿は分離状態を弁護しようとしていることは明らかで、そのような状態を維持することに執着していないものは誰もその証言を耳にするはずがありません。

影の姿は、あなたがなぜ神聖と言えない同盟に加わって 自我の目標を支持すべきか、その「理由」を提供しようとし、あなたのいろいろな関係を 自我の持てる力の証拠にします。

 

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こうした影の姿こそが、あなたの目には 自我が神聖なるものとして映るようにさせ、 自我を安全にしておくためにすることは真実の愛そのものだと教えます。

影の姿をしたものは復讐行為を弁護するのが常であり、そのようなものが入り込む関係はどれも全て完全に正気を逸しています。

このような関係は例外なく、相手についての真実と自分自身についての真実というものを除外視することを目的とします。

それで、双方が実際にはないものを相手の中に見てしまい、両者とも復讐心に駆られる奴隷となってしまうからです。

その上、かつて自分の苦痛の種だったことを思い出させるものには何でも魅力を感じ、それが愛という名目で通りそうに思え、それに関連づけるために駆使した繋がりがどんなに歪曲されていても構うことがありません。

そして、最後に、なぜそうした関係が全て 身体 身体での一体感を得ようとするかというと、それは 身体だけが復讐の手段だと思えるからです。

 

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神聖ではない関係には、必ず、 身体が最も重要だということは歴然としています。

このことをあなたは自分の経験で教わりました。

しかし、あなたは関係を神聖なもので無くする理由を全て認識していないかもしれません。

神聖でないものは、自らを補強しようとし、それを神聖なものと同様、似たもの同士だと知覚するものを傍に集めることで達成しようします。

神聖ではない関係において、結合しようとすることは相手の 身体ではなく、そこにいない者の 身体とです。

相手の 身体でさえも、既にその人と知覚するにはかなり限りがあり、そのままであれ、全体であれ最も重要な焦点とは言えません。

復讐するという空想のために使えるもの、本気で復讐しようとする相手に最も簡単に関連づけられるものは、唯一の価値ある部分だとして、重要視し別にしておこうとします。

神聖ではない関係を結んだり維持するため、そして別れるために一つひとつ取った歩みは、さらなる分離と非実在性に向かうための動きと言えます。

影の姿は、その重要性が減少するように思える人にますます入り込んできます。

時間は神聖でない関係にとって実に薄情なものです。

なぜなら、 自我の手にかかったら確かに時間は残酷だからです。

その半面、時間が親切にするために使われた時には思いやりがあります。

 

ACIM-Text- chapter17-3-4

神聖ではない関係の魅力が無くなり始めると、たちまち疑問をもち始めます。

一旦関係ができると不信感を持たざるを得なくなるというのも、そうした関係の目的は不可能なことだからです。

したがって、「理想的」な神聖ではない関係とは、相手の真実の姿が入り込んで夢を台無しにする心配が全くない関係と言えます。

そして、このような関係は本当のところ、相手がその関係に持ち込むものが少なければ少ないほど、「いい」関係になります。

こうして、一緒になろうとする試みは、そうなることを求めた相手さえも除外する方法となります。

そのような関係はその人を追い出し、邪魔されることのない「至福」の中で、空想に加わるために結ばれたものだからです。

 

ACIM-Text- chapter17-3-5

実在から分離することを唯一の目的とするような関係にあるものに、 聖霊はどのようにして、 身体は意思の疎通の手段だという解釈を持ち出せるでしょうか。

赦しというものが、必ず 聖霊にそれができるようにさせます。

もし、愛に満る思い以外は全て忘れ去ったなら、残っているのは永遠なるものです。

そして、変化した過去は現在と同じになります。

もはや、過去は今と矛盾することはなくなります。

こうした継続性が、あなたが知覚している内に現在の真実味と価値が増していくことによって拡張します。

こうした愛に満る思いの内にこそ美しい煌きがありますが、それは憎しみを忘れずにいる神聖ではない関係の醜さに隠されています。

しかし、そのような関係に生命と美を与えてくれる存在にその関係を譲りさえすれば、そこに活気が戻ってきます。

それ故に、贖罪は過去のことに焦点を合わすのであり、そこに分離の源があるので、そこで取り消されなければいけないということです。

分離はそれを始めたところで訂正される必要があります。

 

ACIM-Text- chapter17-3-6

自我は、色々な問題を、その源ではなくそれが起きてもいないところで「解決」しようとします。

それをしても解決法が見つからないことを請け合おうとします。

聖霊は、自らの解決法を完全で申し分のないものにすることだけを望んでいるので、問題点の源を探し出し、そこで取り消します。

そして、 聖霊が一つまた一つと取り消す度に、分離状態は徐々に解消され、統一された状態に近づきます。

聖霊はどんな分離の「理由」をみても、少しも当惑することはありません。

ただそのような分離状態は解消されなければいけないということだけ見てとります。

あなたの関わっている関係の中にある美しい煌きを隠しているベールを、 聖霊に取ってもらって、その煌きを見せてもらいなさい。

その美しさにあなたは強く引かれ、もう二度とその光景を見失いたくないという気になります。

そして、この煌きが関係を変えてくれるままにしておけば、もっともっと煌きが見えてきます。

あなたはますますそれを望むようになるので、次第に自分から隠されたままにしておきたくないと思うようになります。

その上、こうした美しさが見られる条件を探し求め、確立できるようになるでしょう。

 

ACIM-Text- chapter17-3-7

もし、 聖霊にその煌きを目の前に掲げてもらい、行く手を照らしてはっきり見えるようにしてもらいさえすれば、あなたはこうしたことを、全て喜んで行うでしょう。

神の子は一つです。

神が一つに結ばれた者を、 自我が引き離すことでません。

聖なる煌きは、たとえ一つひとつの関係の中でいかに隠されていようとも、無事であるに違いありません。

一つの関係を創造した創造主は、そのどの部分にも残らずご自身を含めたからです。

聖霊はこの部分だけを関係の中に見るというのも、それだけが真実だと分っているからです。

あなたはこの関係を、それがないところに、しかも、あるがままでないように見ることで、非実在的、すなわち神聖ではないものにしてしまいました。

過去のことは、それについてあなたの心を自分のために変えることができる存在に渡しなさい。

しかし、先ず自分が何を過去に象徴させようとしたのか、そして、なぜそうしたのかということを十分悟る必要があります。

 

ACIM-Text- chapter17-3-8

過去は、現在に逆らって 自我と神聖ではない同盟を継続的に結ぶことを正当化する理由にできます。

現在は、 赦しそのものだからです。

したがって、神聖ではない同盟に押しつけられる関係はどれも今のこととして知覚しなく、感じません。

しかし、現在の意義を求めて参照する評価基準となるものは、過去の幻想そのものであって、そのような基準には、神聖ではない同盟の目的にかなう要素は残してありますが、他のは全て取り除いてあります。

それ故に、こうして取り除かれてしまったものこそ、過去が現在のためにそれが真実だという証拠として提供することができた真実の全てと言えます。

残されたものは夢に見ていることが現実だと証明するだけです。

 

ACIM-Text- chapter17-3-9

今でも、真理に加わることを選ぶか幻想に加わることを選ぶか、それはあなた次第です。

ただし、一つを選べば、もう一つを手放すことになるということを覚えておきなさい。

自分の選んだ方に美しさと実在性を授けようとするでしょうが、それはその選択がどちらをより重要視するかに左右されるからです。

美しい煌きか醜いベールか、 実相の世界か罪悪感と恐怖の世界か、真理か幻想か、自由の身か奴隷の身分か、どれをとってもみな同じことです。

なぜなら、神を取るか 自我を取るか、それ以外には決して何も選ぶことはできないからです。

思考体系は本当か間違っているか二つに一つであり、どちらにせよ、それがもたらすものは全て、単にそうした思考体系の本来の特質から生じます。

ただ神の想念だけが真実です。

そして、その想念に続くものは全て、その思い本来の特質から生じ、それが生まれた聖なる源と同様に真実です。

 

ACIM-Text- chapter17-3-10

私の聖なる兄弟よ、私はあなたが関わっている全ての関係に入り込み、あなたとあなたの空想の繋がりにも入り込むつもりでいます。

私との関係は真実だという思いを抱かせ、あなたが自分の兄弟たちの真実の姿を知覚できるようにしましょう。

あなたの兄弟は、その人たちのせいにしてあなたが自分自身を傷つけることができるようにするために創造された訳ではありません。

あなたと一緒に創造するために創造されたのです。

これこそ真実そのものであり、私はこれをもってあなたが狂気故に目指していることに異議をさしはさむつもりです。

私から離れず、聖なる贖罪の目的を復讐の夢の中で見失ったりしないようにしなさい。

そのような夢を胸に秘めた関係は私を締めだしています。

神の名によって私に入らせ、あなたに平安をもたらすことができるようにしなさい。

そうすれば、あなたも私に平安を差し出すことでしょう。

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編17章「癒しと神聖な関係」目次

17-1  空想を真理へと運ぶ

17-2 赦された世界

17-3 過去からの影

17‐4 二つの絵

17-5 癒された関係

17-6 ゴールを定める

17-7 信を求める呼びかけ

17-8 平安の条件 

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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