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奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編8本文
8. どうすれば難しさの順序を知覚することを避ける事が出来るでしょうか
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難しさに順序があるという信念が、この世界での知覚の根拠となっています。
それは、いろいろな相違点に基づいています。
たとえば、一様ではない背景とか移り変わる前景、高さの差や大小さまざまな大きさ、暗さや明るさの度合いの変化などです。
そしてさらに、何千という差異がある中で、目に止まる一つひとつが他と見分けがつくようと競い合っています。
大きい物の方が、それより小さい物を見劣らせます。
他より明るいものの方が、別の目立たないものよりも目を引きます。
そして、他のものより驚異的な概念や、この世界の基準からするとより望ましいと思われる概念は、精神的均衡を完全に失わせてしまいます。
身体の目で見るものは、葛藤ばかりです。
そうしたものに、平安と理解を期待しないことです。
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幻想とは常に、違いがあるという幻想です。
それ以外の何で有り得るでしょうか。
その定義の上から、幻想とは、非常に重要だと見なされているけれど真実ではないと認識されている何かを、真実であるものとさせようという試みです。
したがって、心はその何かを自らのものにしたいという激しい欲求のあまり、それを真実にしようとします。
幻想とは、創造の真似事であり、嘘偽りに真実を持ち込もうとする試みです。
真実が受け入れ難いことだと見た心が、真実に対抗し、勝利の幻想を自分に与えるのです。
健康であることを重荷と見て、心が熱に浮かれた夢の中へと引き篭ります。
その上で、こうした夢の中では、心は分離していて他の心とは違っていて、それ自体の独自の利害を持ち他者を犠牲にして自分の必要を満たすことが出来るのです。
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こうした違いの全ては、一体どこから生じるのでしょうか。
そのような違いは、確かに外側の世界にあるように見えます。
しかし、目が何を見ているのか、それを判断するのは心であることは確かです。
目が伝える様々の情報を、心が解釈し、それに「意味」を与えるのは心です。
そして、この意味は、外側の世界には全く存在していません。
「実在するもの」と見なされているのは、単に心が好んでいることに過ぎません。
心が定めた価値の順序が外側に投影され、心はそうした順位を 身体の目に見つけにいかせます。
身体の眼というものは、相違点を通さなければ、決して見るということをしません。
しかし、そうした目が伝えることで何を知覚するかが左右されるのではありません。
ただ心だけが、そうしたメッセージを評価するので、見ることに対する責任があるのは心だけです。
心だけが、見えているものが実在するのか幻想なのか、望ましいものか望ましくないものか、楽しいことかそれとも辛いことなのか、こうしたことを決めるのです。
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心の中で選り分けたり分類したりするうちに、間違って知覚してしまうことになります。
だから、ここでこそ訂正がなされる必要があります。
心は、肉眼に映るものを前もって考えておいた価値に従って分類し、それぞれのもたらす感情がどこに一番当て嵌まるかを判断します。
これ以上に間違った基準の置き方があるでしょうか。
心そのものに見分けがつかないので、そうした分類に当て嵌まるものを与えて欲しいと頼むことにしました。
そうしておいて、その心は分類されたことが本当に違いないとの結論を下します。
こうしたことに、全ての相違点についての判断が基づいているというのも、こんなことにこの世界の判断が左右されるからです。
何を決めるにしても、こんなに混乱している上に無分別な「論法」をあてにすることが出来るでしょうか。
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癒しに難しさの順序など有り得ないのですが、その理由は単に、全ての病気は幻想だからです。
狂った人が信じる幻想は、大きな幻覚のほうが小さな幻覚より払いのけるのがより難しいことでしょうか。
その人は、聞こえてくる声が小さい声で聞こえてくるより、大きい時の方が、それが実際には存在しないということをより速やかに認めるでしょうか。
殺せとの要求は、囁かれる時の方が怒鳴り声として耳の入る時よりも無視することが簡単でしょうか。
そして、その人に見える悪魔が手にする三叉の爪の数が、その人の知覚にとって悪魔の信憑性を左右するでしょうか。
その人の心が、そうした悪魔を全て実在するものとして分類したので、その人にとっては全てが実際に在ることになります。
その人が、その全てが幻想だと悟るときには、それらは消え去ります。
したがって、癒しもそれと同じことです。
幻想の属性というものは、様々な幻想が異なっているように見せていますが、その属性は実のところ重要ではありません。
そうした様々な幻想の属性も、幻想そのものと同様に幻に過ぎないからです。
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身体の眼は、色々な相違点を見続けるでしょう。
しかし、自らに癒しを受け入れた心は、もはやそれらを認めようとはしなくなります。
その後も、他の人よりも「病んでいる」のように見える人もいることでしょう。
そして、 身体の目は以前と変わりなくその人たちの外観の変化を知らせるでしょう。
しかし、癒された心は、それらの外観を全て同じ範疇として分類します。
すなわち、それらは実在していない、という範疇です。
これは、教師からの贈り物であり、外側の世界のように見えるものから心が受け取るメッセージを選り分ける時に、二つの範疇だけに意味があるという理解です。
そして、その二つのうちの一つだけが真実です。
実相の中には、相違は存在し得ないので、実相は大きさや形や時間や場所などと関係なく、全的に実在しています。
それと同様に、幻想同士にも何の区別もありません。
いかなる種類の病気にせよ、それに対する唯一の答えは癒しです。
全ての幻想に対する唯一の答えは、真理であるのです。
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