奇跡講座テキスト編19章19-1 癒しと信頼(9-16)

19-Ⅰ 癒しと信頼(1-8)〔奇跡のコース テキスト編 日本語訳〕からの続き〕

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章19-1 癒しと信頼(9-16) 本文

 

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信を抱くということは、癒すということです。

それは、あなたが自分自身のために贖罪を受け入れたということ、したがってそれを分かち合おうとしていることの証しです。

信をもって、過去から解放されるという賜物を差し出します。

それは、あなた自身が受け取ったものです。

あなたは、きょうだいがかつて行った何かを持ち出してきて、今、その人を咎めることはしません。

あなたはその人の誤りを看過することを自由に選択し、自分自身とその人のあいだにあるすべての障害を越えて見るようにし、それらをひとつだと見ます。

そしてそのひとつのものの中で、あなたの信は十分に義とされるものを、あなたは見ることになります。

不信を義とするものは何もありませんが、信は必ず義だとされるのです。

 

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信は恐怖心の対極にあるものであり、恐れが攻撃の一部だとすれば、同様に信は愛の一部といえます。

信は一つに結ばれていると認めることです。

それが慈しみをもって承認しているのは、誰もがみな最も素晴らしい愛に満つる父の子であり、誰もがみなあなたと同じように父に愛されて、したがって、あなたからもあなた自身をとして愛されている神の子であるということです。

あなたとあなたのきょうだいを結ぶのはその神の愛であり、その愛ゆえに、あなたは誰のことも自分の愛から離れたままにしておきたいとは思いません。

一人ひとりがみな、罪悪感から開放されるというあなたの目的において一つに結ばれ、聖なる瞬間に知覚された通りの姿で現れます。

あなたはそのきょうだいのなかに キリストを見ます。

そして、すべての者の中で永遠に信を義とするものをあなたがみているゆえに、その人は癒されます。

 

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信頼とは、神があなたに与えた存在を介して授けられる神からの贈り物です。

その信をもたずに神の子を見れば、赦されるに値しないと判断するでしょう。

しかし、信の目でみれば、神の子はすでに赦されていて、自分で自分に課した罪悪感からはすべて自由です。

信はただ神の子を、今、見るにすぎません。

なぜなら、その人を判断するために過去を見ることをせず、単に自分の内に見ようとするものを、その人の内に見るつもりだからです。

信は肉眼の目を通して見るのではなく、自らを義とするために 身体に頼ることもしません。

信はいわば新しい知覚のしかたをする使者であり、その到来を証しする証人を集め、彼らのメッセージをあなたのもとに持ち帰るために送り出されるのです。

 

Acim-Text-19-1-12

信は、 実相の世界と同じく、容易に叡智と交換されます。

なぜなら、信は 聖霊の知覚から生じるものであり、あなたがそれを 聖霊と分かち合っているという証しだからです。

信とは、 聖霊を通じてあなたが神の子に差し出す贈り物であり、それは 聖霊にとってと同様、父なる神にとっても完全に喜ばしいものです。

したがって、それがあなたにも差し出されています。

あなたの神聖なる関係は、その新たな目的とともに、あなたにそれを自分のきょうだいに与えるための信を差し出します。

あなたの不信が、あなたときょうだいを分離するように仕向けてきたのであり、それゆえ、あなたはその人のなかにある 救済を認識しません。

しかし、信はあなたが見る聖性の中で、あなたがたを一つに結び付けます。

そして、その聖性を、あなたは 身体の目を通してではなく、あなたとつながっていると同時に自らの中であなたがたを一つにしている 聖霊の視覚の中で見ます。

 

Acim-Text-19-1-13

神の恩恵は 身体に与えられるのではなくて、心に与えられます。

そしてそれを受け取る心は、ただちに 身体を越えたところに目を向け、自らが癒された聖なる場所を見ます。

そこには、恩恵の授けられた場所である祭壇があり、それは恩寵の中に留まっています。

それならば、あなたもきょうだいに恩寵と祝福を差し出しなさい。

なぜなら、あなた方両方のために恩寵が置かれたその同じ祭壇の前に、あなたは立っているからです。

そして、信を通してあなたが癒せるように、きょうだいと一緒に、恩寵によって癒されなさい。

 

Acim-Text-19-1-14

聖なる瞬間に、神がご自身とあなたたち二人のために建てた祭壇の前に、あなたときょうだいが一緒に立ちます。

不信を脇に退け、二人一緒にそこに来なさい。

そこであなたは、自分の関係にともなう奇跡を、またそれが信を通して作られたとおりに見るでしょう。

そしてそこであなたは、信で赦すことができないものは何一つ無いと悟るでしょう。

いかなる誤りにも妨げられることのないその穏やかな視覚は、すべての誤りに対して同じように難なく癒しの奇跡をもたらしてくれます。

それというのも、愛の使者たちは、遂行すべく送り出されたその任務を果たすからです。

そして、彼らは、自分たちを送り出した祭壇の前に一緒に立っているあなたときょうだいに、それが遂行されたという嬉しい知らせを持ち帰ります。

 

Acim-Text-19-1-15

不信はあなたの小さな王国を不毛の分離した国のままにさせておきますが、信は 聖霊がそこを聖なる庭園にするためにその地を耕すのを助けます。

信は平安をもたらし、それゆえ、すでに麗しさのために耕されたものを麗しくするべく中に入ってきてくれるようにと、真理に呼びかけます。

真理は信と平安のあとに続き、麗しくするために信と平安がはじめるプロセスを完成させます。

なぜなら、信は学びのゴールにすぎないので、学ぶべきことを学んだらもはやそれは必要はなくなります。

しかし、真理は永遠に留まります。

 

Acim-Text-19-1-16

それならば、あなたの専心を永遠なるものに捧げなさい。

そして、いかにしてそれを邪魔することなく、それを時間の奴隷にもしないようにするのか、その方法を学びなさい。

なぜなら、自分が永遠なるものに対してやっていると思っていることを、自分自身対してしていることになるからです。

神が自分の子として創造された者は、創造主と共に万物の主であるので、いかなるものに対しても奴隷ではありません。

あなたは 身体を奴隷にすることはできても、想念は自由であり、それを思考した心以外には、牢獄に閉じ込め、何らかのかたちで制限されることなどありえません。

なぜなら、想念は自らの源と結びついたままであり続け、その源は、心が自らのためにどちらを目的として選ぶかによって、その想念が看守にも、解放者にもなるからです。

 

19-Ⅱ 罪対誤り〔奇跡のコース テキスト編 日本語訳〕

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次

19-1   癒しと信

19-2   罪対誤り

19-3   罪の非実在性

19-4   平安への障害

19-4-A  第一の障害‐それを取り除きたいという欲求

19-4-A   i  罪悪の魅力

19-4-B   第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念

19-4-B     ⅰ苦痛の魅力

19-4-C   第三の障害- 死の魅力

19-4-C  ⅰ朽ちることなき 身体

19-4-D   第四の障害-神に対する恐れ

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次

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目次

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