Contents
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第29章「目覚め」29-8本文
第29章29-8 反 キリスト
ACIM-Text-chapter-29-8-1
偶像とはいったい何でしょうか。
あなたは、それを自分がそれを知っていると思っているのでしょうか。
というのも、偶像は偶像そのものとしては認識されておらず、決してその正体のままに見られたことは一度もないからです。
それが、偶像のもつ唯一の力です。
それが、何のためにあって、なぜ作り出されたのか、をあなたが知らないからこそ、それらの目的は覆い隠されており、それらが恐れられていると同時に崇拝されています。
偶像とは、あなたが兄弟の本性以上に価値あるものにしようとしている、兄弟についての一つの形象です。
偶像は、それがどんな形であるかに関わらず、それを兄弟に置き換わるべく作り出されています。
そして、決して知覚されることも認識させることもないのが、このことです。
身体、物、場所、状況、境遇、所有されているものや所有したいもの、要求されたり獲得されたりする権利など、それが何であろうと同じです。
ACIM-Text-chapter-29-8-2
そうした形に欺かれてはなりません。
偶像たちは、あなたの実相の代用品に過ぎません。
あなたが信じているのは、何らかの形でそれらが卑小な自己を完全なものにしてくれるという事、そして、自分の自信と心の平安を脅かす勢力が結集した危険な所だとして知覚されている世界において、安全をもたらしてくれるという事です。
それらには、あなたに欠けているものを補い、あなたが持っていない価値を加えてくれる力があるというわけです。
自分自身の卑小さと損失の奴隷にした者でなければ、誰も偶像を信じたりしません。
したがって、この世界が映し出すありとあらゆる惨めさから離れ、毅然として立つための強さを、卑小な自己を越えたところに探さなければなりません。
これが、確かさと静謐を求めて内側を見ないことに対する報いです。
内側を見ることにより、あなたは世界から解放され、そこから離れて静けさと平安の中に立つことが出来るようになります。
ACIM-Text-chapter-29-8-3
偶像とは、偽りの印象あるいは偽りの信念です。
すなわち、何らかの形で反 キリストであり、それがあなたに見えるものと キリストの間に、一つの隔たりを構築しています。
偶像とは、具象化され形態を与えられた願望であり、それにより実在するものとして知覚され心の外側に見られているものです。
しかしそれは、あくまでも想念であり、その源の心から離れることは出来ません。
その形態もまた、それに表象される想念から離れてはいません。
そして、それは黒いベールのように キリストの顔の前垂れ下がり、あなたを キリストから切り離し、闇の中に独りにするかのように見えます。
しかし、光はそこにあります。
雲が太陽を消すことはありません。
それと同じように、ベールはそれが分離させているかに見えるものを取り除くことはできず、また光そのものをほんの僅かでも暗くすることは出来ません。
ACIM-Text-chapter-29-8-4
偶像から成るこの世界そのものが、 キリストの顔の前にかかったベールです。
なぜなら、その目的は兄弟をあなた自身から分離することにあるからです。
暗く恐ろしい目的であるとはいえ、それは草の葉の一枚さえも生命あるものから死のしるしに変える力さえ持たない一つの想念です。
それの形態はどこにも存在しません。
なぜなら、その源が、あなたの心の中で神が住まうことのない所にあるからです。
あらゆる所に偏在するはずのものが除外され、遠ざけられているこの場所とは、いったいどこにあるのでしょうか。
どんな手を上げれば、神の行く手を遮ることが出来るというのでしょうか。
いったい誰の声が、神に対して入って来ないようにと要求できるというのでしょうか。
「一切であるもの以上のもの」とは、あなたを恐れさせ、震え上がらせるようなものではありません。
キリストの敵はどこにも存在しません。
それは、実在となり得るいかなる形も取ることは出来ません。
ACIM-Text-chapter-29-8-5
偶像とは何でしょうか。
無です!
生命を持つかに見えるようになるためには、それは信じられねばならず、恐れられるようになるためには力を与えられねばなりません。
その生命と力は、それを信じる者からの贈り物であり、奇跡はこうしたものを、天国の贈り物と永遠の平安に相応しい生命と力を持っているもののもとに回復させるます。
奇跡は、真理を回復させることはしません。
真理は、間を遮るベールによって消された事のない光です。
奇跡は単にそのベールを取り払い、真理がありのままに何にも邪魔されることなく輝くようにするだけです。
真理が真理であるために信念は必要ではありません。
それは創造されたものだからです。
したがって、それはただ在るのみです。
ACIM-Text-chapter-29-8-6
偶像は信念によって確立され、信念が撤回されたなら偶像は「死ぬ」ことになります。
これが反 キリストです。
すなわち、全能の力を越える力や、無限なるものを越えた場所や、永遠なるものを超越した時間といったものが存在するという、奇妙な考えです。
ここにおいて、そうした力や場所や時に形態が与えられて、不可能なことが起こった世界を形成するという考えによって、偶像の世界が形成させるに至りました。
ここには、不死なるものが死ぬためにやってきます。
全てを包含するものが損失を被り、時間を超越したものが時間の奴隷とされるためにやってきます。
ここでは、不変であるものが変化し、生きとし生ける全てのものに永遠に与えられている神の平安が混沌に道を譲ります。
そして、父と同じように完璧にして罪のない愛に満つるものである神の子が、しばらくの間憎しみを抱き、苦しみを味わい、最後には死んでゆくためにやってきます。
ACIM-Text-chapter-29-8-7
偶像はどこにあるのでしょうか。
どこにもありません!
無限なるものの中に隔たりがあり得るでしょうか。
時間が永遠を中断させられる場所があるでしょうか。
全てが光そのものであるところに設けられる闇の場所や、果てしないものから切り離された陰鬱な洞穴にとって、存在できる場所などありません。
偶像の居場所は、神が永遠に全てのものを配し、神の意志以外のいかなるものにも存在する余地を全く残さなかった場所の外側です。
偶像は実在しないものであり、どこにも存在しませんが、神は一切であり、あらゆる場所に遍在します。
ACIM-Text-chapter-29-8-8
それでは、偶像にはどんな目的があるのでしょうか。
何のためのものでしょうか。
これが多くの答えがある唯一の質問であり、誰に向かってその質問が問われたかによってそれぞれの答えが決まります。
この世界は、偶像を信じています。
誰であれ、偶像を崇拝していなければ、そして、今でも実相に含まれていない贈り物を与えてくれそうな何らかの偶像を探しているのでなければ、ここに来ることはありません。
偶像を崇拝する一人ひとりが、自分の特別な神々が自分に他者の所有しているものよりそれ以上のものを与えてくれるだろうという希望を抱いています。
よく多くでなければなりません。
何をより多くであるか問題ではありません。
もっと多くの美しさ、もっと多くの知性、もっと多くの富、さらには、もっと多くの苦難や苦痛でさえも、その対象です。
とにかく、より多くの何かのために偶像は存在します。
そして、一つの偶像が失敗すれば、もう一つが代わりとなって、他の何かをより多く見つけるという希望を携えてきます。
その「何か」が纏う形に欺かれてはなりません。
偶像は、より多くを得るための手段です。
神の意志に反しているのは、まさにこのことです。
ACIM-Text-chapter-29-8-9
神には、多くの子らがいるのではなく、ただひとりの子がいます。
誰がより多くを持ち、誰がより少なく与えらるというのでしょう。
天国の中であるなら、神の子は、仮に偶像が神の子の平安を乱すことが出来たとしても、ただ一笑に付すだけでしょう。
聖霊は神の子を代弁していて、偶像はここでは何の目的も持っていないとあなたに教えます。
なぜなら、あなたは天国以上のものもつことは決して出来ないからです。
もし天国が内側にあるとすれば、なぜあなたは天国を減じようとする偶像を探し求め、神がご自身と一体であるあなたの兄弟やあなたに与えた以上のものを自分にもたらそうとするのでしょうか。
そして、あなたが決してそれを失うことがないように、同じものを全ての生きとし生けるものにも与えました。
それゆえに、生きとし生けるものの全ては神ご自身の一部であるように、あなたの一部なのです。
いかなる偶像といえども、あなたを神以上のものにすることは出来ません。
しかし、あなたはそれ以下のものとして存在することには決して満足しないでしょう。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第29章「目覚め」目次