Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第21章 「理性と知覚」21-2
- 第21章 21-2 見ることに対する責任
- ACIM-Text- chapter21-2-1
- ACIM-Text- chapter21-2-2
- ACIM-Text- chapter21-2-3
- ACIM-Text- chapter21-2-4
- ACIM-Text- chapter21-2-5
- ACIM-Text- chapter21-2-6
- ACIM-Text- chapter21-2-7
- ACIM-Text- chapter21-2-8
- ACIM-Text- chapter21-2-9
- ACIM-Text- chapter21-2-10
- ACIM-Text- chapter21-2-11
- ACIM-Text- chapter21-2-12
- ACIM-Text- chapter21-2-13
- 第21章 21-2 見ることに対する責任
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第21章 「理性と知覚」21-2
第21章 21-2 見ることに対する責任
ACIM-Text- chapter21-2-1
繰り返し述べたように、このコースを学ぶ為に、あなたにはごく僅かしか求められていません。
あなたが関わる全ての関係を喜びへと変容させるために必要なものも、それと同様に、ささやかな意欲だけです。
それは、引き換えに 聖霊から全てを与えてもらえるようあなたが差し出す小さな贈り物であり、 救済の基盤となる僅かなものであり、十字架刑を復活に変えるためのごく小さな心の変化です。
そして、これは真実であるため非常に単純であり、それが完全に理解できないということは有り得ません。
拒絶されることはあっても、曖昧ではありません。
だから、もしあなたが今それに逆らう選択をするとすれば、その理由はそれが不明瞭だからではなく、あなたの判断によれば、このような僅かな代価が、平安を得るための代価としては高すぎると思えたからです。
ACIM-Text- chapter21-2-2
これから述べることが、心眼や幸せや、苦痛から解放や、罪からの完全な脱出のために、あなたがすべき唯一の事です。
ただ次のように言いなさい。
なぜなら、ここに 救済の力があるからです。
私が見ているものについての責任は、私自身にあります。
私が経験する感情を選択するのは私自身であり、私が達成したいゴールを決めるのも私自身です。
そして、自分の身に起こるように見える全ては、私が求めて、求めた通りに受け取るものです。
自分に対して為されることを前にして自分は無力であると、これ以上自分を偽るのはやめなさい。
自分が間違っていただけだと認めなさい。
そうすれば、あなたの間違いの結果は全て消え去るでしょう。
ACIM-Text- chapter21-2-3
神の子が、ただ自分の外で起こる出来事によってつき動かされているということは、有り得ません。
その人に訪れる出来事が、その人による選択ではなかったということは、有り得ません。
その人の決断の力は、偶然性や思いがけないことによって自分が居合わせたかのように見える状況の全てを決定するものです。
神が創造したままの宇宙の中には、いかなる偶発性や偶然性も有り得ず、その外には何も存在しません。
苦しむとすれば、あなたは罪を自分のゴールと決めたのです。
幸せであるなら、自分のために神を選ぶ選択をしてくれる 聖霊に決断の力を譲ったのです。
これが、あなたが 聖霊に差し出す小さな贈り物で、 聖霊はこれさえもあなたが自分自身に与えることが出来るようにと与えます。
この贈り物によって、あなたに自ら 救済者を解放する力が与えられ、それによってその人があなたに 救済を与えることが出来るようになるからです。
ACIM-Text- chapter21-2-4
それならば、この僅かな捧げ物を出し惜しんではなりません。
それを差し出さないままでいると、今見ている通りの世界をあなたは持ち続けることになります。
それを引き渡してしまえば、あなたが見ているもの全てがそれと共に去っていくでしょう。
このような僅かなものと引き換えに、これほど多くが与えられたことは、かつて一度もありませんでした。
聖なる瞬間に、こうした交換が達成され、維持されます。
ここで、あなたの望まない世界が望む世界へともたらされていきます。
ここで、あなたの望む世界が、あなたがそれを望むがゆえにあなたに与えられます。
しかし、このためには、先ず自分が望むという事が持つ力が認識されなければなりません。
あなたは、その弱さではなく、その強さを受け入れなければなりません。
一つの世界を作り出せるほど強力なものは、その世界を手放すことも出来るし、自分が間違っていたと認めようとする意欲があるなら、その訂正を受け入れることも出来るということを、あなたは知覚しなければなりません。
ACIM-Text- chapter21-2-5
あなたが見ている世界は、あなたが正しかったと根拠なく証言する証人です。
この証人は狂っています。
あなたがその証言を仕込んだのであり、それがその通りに証言を持ち帰った時、あなたはそれに耳を傾け、それが見てきたことは真実だと自分自身を納得させました。
これを、あなたは自分自身に対してしたのです。
このことだけを見なさい。
そうすれば、あなたにとっての「見る」ということの論拠がいかに堂々巡りするだけのものかも分ってくるでしょう。
これはあなたに与えられたものではありません。
それはあなたが自分自身と兄弟に与えた贈り物でした。
それなら、それが兄弟から取り除かれ、真理と置き換えられてもいいという気持になりなさい。
その人の中にその変化を見る時、あなたもそれを自分自身の中に見ることが出来るようになるでしょう。
ACIM-Text- chapter21-2-6
多分、あなたには、このささやかな捧げ物を差し出す必要が見えていないのでしょう。
それなら、それが何なのかもっと近くで見てみなさい。
そして、端的に言って、その中に分離から 救済への交換の全貌を見なさい。
自我とは一体何かと言うなら、神の子自身の意志を抜きにして、すなわち神の子自身の意志と不可分の創造主の意志を抜きにして、神の子に何かが起こり得るという考えに他なりません。
これが、神の子が自らの意志と取り替えにしたものであり、永遠に存在するものに対する狂った反乱です。
これは、神を無力にしてその力を自分のものとし、神が自分に意志したものを持たずにいるだけの力が自分にはあるという声明です。
これが、あなたが自分の祭壇に祭って、崇拝している狂った想念です。
そして、これを脅かすものは何であれ、あなたの信を攻撃しているように見えます。
なぜなら、あなたの信はここに置かれているからです。
自分は何も信じていないと思ってはなりません。
なぜなら、この点におけるあなたの信念と信頼は実に強いものだからです。
ACIM-Text- chapter21-2-7
聖霊は、あなたに聖性に対する信とそれを見ることの出来る心眼を、充分かつ容易に与えることが出来ます。
しかし、あなたは、その贈り物が供えられるべき祭壇を、開いて空にしておきませんでした。
それらが供えられるべきところには、別の何かに捧げる偶像を設置しました。
何が起こるべきか自分に告げるかに思えるこの別の「意志」に、あなたは実在性を与えます。
したがって、あなたにそれ以外のものを見せようとするものは、実在しないように見えます。
あなたに求められているのは、ただ真理のために場所を開けることを求められているだけです。
あなたには、自分の理解を超えているものごとを作り出したり、行ったりすることは求められていません。
求められているのは、それを中に入らせることです。
それは、ただ、自然に起こることに干渉しようとするのをやめることであり、ただ自分が捨て去ったと思っていたものの存在を再び認識することだけです。
ACIM-Text- chapter21-2-8
ほんの一瞬の間、あなたの祭壇を、その上に自分が置いたものから自由にしようとする意欲を持ちなさい。
そうすれば、真にそこに在るものを、あなたが見落とすことは有り得ません。
聖なる瞬間とは、創造の瞬間ではなく、認識の瞬間です。
認識は、心眼と判断を止めることから訪れます。
その時初めて、内側を見て、はっきりと見える形で推測や判断に全く影響されることなく、そこに存在するものを見ることが可能になります。
取り消すことはあなたの仕事ではありませんが、それを歓迎するかしないかは、あなたに任されています。
信と欲求は一緒に生じるものです。
なぜなら、誰でも自分が望むものの存在を信じるからです。
ACIM-Text- chapter21-2-9
既に述べたように、望み通りになるという思考が、 自我が自分の望むものを実現させるために使うやり方です。
自我のゴールを実在する実現可能なもののように見せかけるための願望の力、すなわち信の力を、この思考以上に明確に実証するものは他にありません。
したがって、実在しないものへの信は、狂気のゴールに適合させるために実相を調整することへとつながります。
罪というゴールは、その目的を正当化するために、恐ろしい世界という知覚を誘発させます。
自分が欲するものを、あなたは見ることになります。
そして、その実在性が偽りのものである場合は、それを実在させようとして自分が導入した全ての調整を認識しないことによって、あなたはそれを支持することになります。
ACIM-Text- chapter21-2-10
心眼が否定される時には、原因と結果の混同が避けられなくなります。
そうなると、今や結果をもたらした原因を覆い隠しておいて、結果のほうを原因のように見せかけることが目的となります。
結果のこうした見かけ上の独立性は、結果をそれ自体で存在するものと見なすことを可能にします。
そうして結果は、その作り手がそれを引き起こすと思っている出来事や感情の原因としての役割を果たせるようになります。
以前に私たちは、自分で自分の創造主を創造し、その創造主の子ではなくて父になりたいというあなたの欲求について、語ったことがあります。
これはそれと同様の欲求です。
神の子とは結果ですが、その原因をその人は否定したいと望んでいます。
だから、その人自身が実在の結果をもたらす原因であるかのように見えます。
原因なしに結果をもたらせるものは何一つなく、この二つを混同することは、単にその両者を理解し損なうことに過ぎません。
ACIM-Text- chapter21-2-11
あなたには、自分で自分を創造しなかったと認識する必要があるのと同じくらい、自分の見ている世界は自分で作り出したのだと認識することが必要です。
それらは同じ間違いです。
あなたの創造主によって創造されていないものは、あなたに何ら影響を与えません。
そして、もし、あなたが、自分の作り出したものが、自分が何を見て何を感じているかを自分に教える事が出来ると考え、あなたの信をそうしたもののそのような能力の上に置くとすれば、あなたは自分の創造主を否定し、自分で自分を作り出したと信じていることになります。
もし、あなたが自分の作り出した世界がそれ自体が意志する通りにあなたを作り出す力があると考えるのなら、あなたは子と父、すなわち結果と源を混同しているからです。
ACIM-Text- chapter21-2-12
神の子の被造物たちは、父の被造物と似ています。
しかし、それらを創造するにあたり、神の子は自分が自分の源から独立しているという妄想はしません。
源と一つに結ばれているということが、創造の源です。
これから離れて、創造する力はなく、作り出すものは無意味です。
それは、創造において何一つ変えることもなく、全面的にその作り主の狂気の上に成り立っていて、その狂気を正当化するための役にも立ちません。
あなたの兄弟は、あなたと一緒に世界を作り出したと思っています。
それ故に、その人は創造を否定しています。
あなたと共に、その人は自分の作り出した世界が自分を作り出したと考えています。
かくして、その人はそれを自分で作り出したことを否定します。
ACIM-Text- chapter21-2-13
ところが、真実は、あなたも兄弟もいずれも愛に満ちた父によって創造され、父は双方を一緒に一なるものとして創造したということです。
そうではないと「立証する」ものを見ているなら、あなたは自分の実相を全面的に否定したのです。
しかし、あなたと兄弟との間に立ちはだかり、互いを引き離し、父からも分離させているように見える一切を、あなた自身が密かに作り出したと認めなさい。
そうすれば、あなたに解放の瞬間が訪れたことになります。
その全ての結果は消え去っています。
なぜなら、その源が明らかにされたからです。
あなたを幽閉し続けているのは、それが源から独立しているかのように見せている上辺だけの独立性です。
これは、あなたが一度も離れたことのない自らを創造した源から、自分が独立していると考えるのと同じ間違いです。