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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」より2-7本文
第2章 2-7 原因と結果
ACIM-Text- chapter2-7-1
あなたは恐れについて不平をまだ言っていますが、それでも諦めずに自分自身を恐れさせています。
既に指摘しておきましたが、自分を恐れから解放して欲しいと、私に求めることはできません。
私には「恐れなど存在しない」と分かっていますが、あなたはそれが分かっていません。
もし、私があなたの思考とその結果として起こることの間に介入すれば、原因と結果という基本的法則を勝手に変更することになります。
そして、この法則は最も根本的なものだと言っておきます。
もし、私があなた自身の考える力を過小評価するなら、実際にはあなたを助けてはいないことになります。
それは、この奇跡のコースの教えが目指すことに、真っ向から反対することにもなります。
それよりも、あなたが自分の思考を十分に注意して警戒していないと気付かせることの方が、もっと役立ちます。
この時点では、それができるようになるには奇跡を要すると感じるかもしれませんが、確かにそれは事実です。
あなたは奇跡を行う気持ちで考えることに慣れていませんが、そのように考えられるようにレッスンを受けることはできます。
奇跡を行う全ての者は、そうしたレッスンを必要とします。
ACIM-Text- chapter2-7-2
私は、あなたの心を警戒していないままにさせておくのを、そのままにはしません。
そうしないと、私を手助けできなくなってしまいます。
奇跡を行うには、誤って創造するのを避けるために、思考力が何を為し得るかを十分に悟る必要があります。
そうでなければ、心そのものを正すのに奇跡が必要となり、それでは奇跡で時間を縮めようとしていることを阻んで堂々廻りのようなプロセスとなります。
奇跡を行う者は、奇跡が起こるのに必要な条件である「真の原因と結果の繋がり」を心して、そのことを重視しなければなりません。
ACIM-Text- chapter2-7-3
奇跡と恐れは両方とも思考から起こります。
もし、あなたが、その中の一つを自由に選べなければ、もう一つも自由に選べないでしょう。
たとえそれが一時的なことに過ぎないとしても、奇跡を選べば恐れを拒絶したことになります。
あなたは全ての人を恐れ、その上ありとあらゆるものを恐れ続けてきました。
神に恐れを抱き、私や自分自身にも恐れを抱いています。
私達を誤って知覚したり誤って創造した上で、自分の作り出したものを信じています。
もし、自分自身の思考を恐れていなければ、こんなことをしたりしなかったでしょう。
恐れている者は、創造を誤って知覚しているので、必然的に誤って創造します。
誤って創造すれば自分が苦しい思いをします。
一時的なことであっても、原因と結果の原理というものがここで本当に現れています。
実際のところ、「原因」とは神のことを適切に言い表す用語であり、神の「結果」とは神の子のことです。
これには原因と結果という一組の関係を必然的に伴うのであり、それはあなたが誤って創造に取り入れることとは全く違うものとなります。
ということは、この世界において根本的に矛盾しているのは、創造と誤った創造との間のことです。
恐れというものは全て誤った創造に内在し、愛は全て創造の内に内在します。
したがってそうした矛盾は、愛と恐れとの間にあるものです。
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既に述べたように、あなたが恐れを抑制することができないと信じるのは自分で恐れを作り出したからであり、その上そう信じること自体が恐れを抑えきれなくなるように思わせるからです。
しかも、恐れに打ち勝とうとする試みで、何とか間違いを解消しようとしても、それは役に立ちません。
実際に、恐れに打ち勝つ必要があると決め付けていること自体が、恐れのもつ力を明らかに承認しています。
真の解決法は、全て愛によって打ち勝つことに基づきます。
しかし、その間は葛藤を感じることは免れないでしょう。
なぜなら、あなたは存在しないものの力を信じる立場に自分を置いてしまったからです。
ACIM-Text- chapter2-7-5
実在しないものと実在するものとが共存することはあり得ません。
一方を信じると、他方を否定することになります。
恐れは全く実在しないものであり、愛が実在するものです。
光が暗闇に入ると、その時点で暗闇はなくなります。
あなたが信じるものは、あなたにとっては真実です。
この意味では、分離は起こったことであり、それを否定することは適切とは言えないやり方で否認しているに過ぎません。
しかしながら、間違いに心を集中することは、さらに間違いを重ねることになるだけです。
訂正する順序の第一歩は、問題があるということを一時的に認めることですが、それはただ即座に正す必要があると指摘するためです。
こうすることが、手間取ることなく贖罪を受け入れられる心の状態にします。
しかし、究極的には実在するものと実在しないものとの間では、いかなる妥協も不可能だということを強調しておきます。
時間は本質的に「手立て」であり、それによってここで述べた観点から全て妥協することを断念できます。
それが完全に無くなるまでのプロセスが、少しずつしか進まないように思えるのは、時間そのものが存在しない時間の間隔を含むからです。
誤った創造が訂正するための手立てとして、これを必要とさせたのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という言い方は、この文脈の中で意義をもたせるには、一つだけ僅かな訂正を必要とします。
「神はそのひとり子に世を賜うほどに」という訂正です。
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神にはただひとりの子があるということを、特に心に留めるべきです。
もし、神が創造したものは全て神の子であるなら、一人ひとりが一なる子として全体にとって絶対的に必要な部分であるに違いありません。
一なる子として一体となった姿は、数ある部分を合わせた和を超越したものです。
しかし、数ある部分のどれかが欠けている限り、このことは不明瞭となります。
この為、一なる子に属する部分が全て元に戻るまで、究極的には葛藤が解消されることはありません。
全ての人が戻った後でこそ、本当に完全である姿というものの意味を理解できます。
一なる子に属しながら、もしそれを選ぶなら、間違いを信じたり不完全なものを信じたりすることはできます。
しかし、もしそれを信じるとすれば、実在しない状態が存在すると信じることになります。
こうした間違いを訂正するのが贖罪です。
ACIM-Text- chapter2-7-7
私は既に、「準備ができている」とはどういうことか、簡単に言ったことがあります。
けれども、それにいくつかの要点を付け加えることが役に立つかもしれません。
「準備ができている」ことは、何かを成し遂げる為の、あらかじめ必要な条件のことに過ぎません。
この二つを混同してはなりません。
準備ができたならば、すぐにでも成し遂げたいと望む気持ちをある程度持つのが普通ですが、それは必ずしもそれだけを望むという意味ではありません。
そうした状態は心を変えられる可能性があるという意味を含んでいるに過ぎません。
何をするにせよ、それを習熟し自分のものだと言えるまでは、十分に自信を持てるものではありません。
恐れに打ち勝つなどという根本的な間違いを正す試みをし、本当に打ち勝つ方法とはただ一つ、愛によってであるということを既に強調しておきました。
準備ができたとは自信を得る為の最初の段階に過ぎません。
こういうと、準備ができたときから打ち勝つまでには、途方もなく長い時間が必要だとほのめかされているように思うかも知れません。
しかし、ここで時間と空間を誘うのは私だということ思い出しなさい。