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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」より2-3本文
第2章 2-3 神の祭壇
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贖罪は内なる光を解放することによってのみ、あなたに受け入れられます。
分離以来、ほとんどの防衛法は全て贖罪に逆らう為の防衛として使われており、そのようにして分離状態を持続しています。
これは 身体というものを保護するには、大体においてそうする必要があると見なされています。
心が携わる多くの 身体に関する空想は、 身体を「罪の償い」を果たす手段として使えるという歪んだ信念から生じます。
身体を 聖霊の神殿として知覚することは、こうした歪みを正すための第一段階に過ぎません。
というのも、それはその歪みの一部分だけを改めるのみだからです。
それは確かに、物質的な段階である 身体での贖罪は不可能だと認めています。
しかし、次の段階で悟るべきことは、 聖霊の神殿とは建物を指しているのではないということです。
その真の神聖さは内なる祭壇にあるので、建物はその周りに建てられているにすぎないということになります。
見事な建物を強調するとすれば、それは贖罪を恐れているのであり、祭壇そのものに達したくないという思いを表しています。
聖霊の神殿の本当の美しさは、 身体の目で見ることはできません。
それとは別に、霊的な目は完全なる心眼であるので、建物を全く見ることができません。
しかし、祭壇そのものは完全にはっきりと見ることができるのです。
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贖罪には完全な効力があるからこそ、内なる祭壇の中心となるに相応しく、そこで分離を取り消して元に戻し、心を完全な姿に回復させます。
分離以前は、恐れというものは存在していなかったので、心が恐れによって傷付けられることがありませんでした。
分離と恐れは両方とも誤って創造されたことであり、 聖霊の神殿を修復し、祭壇を開いて贖罪を迎え入れる為には、どちらの誤創造も取り下げなければなりません。
そうして、分離に関する全ての思いに対して効果的な防衛法をあなたの内に置き、あなたは一切傷付くことができなくなるので、分離を癒すことができるのです。
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全ての誰もが贖罪を受け入れることは、ただ時間の問題です。
こう言うと、その最終結論は必然的であるようで、自由意志と矛盾するように思えるかもしれませんが、そうではありません。
あなたは一時逃れすることもできるし、途方もなくぐずぐずすることもできますが、創造主から完全に離れ去ることはできません。
なぜなら、創造主はあなたが誤って創造する能力に限界を定めているからです。
捕らわれの身である者は、極端な限界に全く耐えられないというような事態を引き起こします。
痛みや苦しみに対する忍耐力が余程あったとしても、それに限界がない訳ではありません。
最終的には誰もが、もっと良い道が必ずあるはずだと、どんなに僅かであるにせよ、気付き始めます。
こう気付いたことが更にしっかりと確信に変わった時、それが重大な転機となります。
究極的には、これが霊(Spirit)としての心眼を再び目覚めさせ、それと同時に、 身体の目で見ることを当てにしたり期待したりしなくなります。
この二つの段階で交互に知覚し、そのどちらかに期待しようとするならば、葛藤を覚えるのは当然であり、それが非常に深刻になることがあります。
しかし、その結果そのものは神と同様明確なことです。
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霊(Spirit)としての心眼は、間違いを全く見ることができず、ただ贖罪を待ち受けるだけです。
身体的な目で求めようとする解決法は次第に消え失せます。
霊(Spirit)としての心眼は、内面に目を向けて、直ぐさま祭壇が汚されていることに気付いてそれを綺麗にし、保護する必要があると見て取ります。
それは、正しい防衛の方法を十分に意識しているので、他の防衛を全て通り越し、間違いを後にして真理を求めます。
その霊的心眼の強さにより、心はそれに捧げるようになります。
こうすることが心の力を回復させ、遅れを取ることはただ必要のない苦痛を増やすことであると悟るので、遅れを取ることに耐えられなくなります。
その結果、かつては些細なこととしてただ少し不安にさせるだけであると見なしていたことに対しても、心はますます敏感になっていきます。
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神の子供たちは、完全に信頼すればこそ得られる完全な安らぎを受け取る権利があります。
これを達成するまでは、自分自身並びに真の創造力を、適当とは言えない手段で自分たちに安らぎを与えようとする無益な企ての為に浪費することになります。
しかし、そのための本当の手段は既に与えられており、それは神の子供たちが努力をするかしないか、ということには全く左右されないものです。
贖罪こそが神の祭壇に捧げられるに相応しい唯一の贈り物であるのは、その祭壇そのものに価値があるからです。
それは完全に創造されたものであり、完全であるものを受け取るのに相応しいと言えます。
神と神が創造したものは、全面的にお互いに依存し合います。
神が完全に創造したものだからこそ、信頼し依存するのです。
神が自らの平安を与えたのは、そのようにすれば動揺したり欺かれたりしないであろうと思ってのことでした。
あなたが恐れる度に欺かれているのは確かであり、あなたの心は 聖霊に仕えることができなくなります。
これは日用の糧を拒むことになるので、自分を飢えさせることになってしまいます。
神は神の子たちがいなければ孤独な思いをし、また神の子たちは神がいなければ孤独です。
神の子たちは、この世界は分離を癒すための手段であると見なすことを学ばなければなりません。
贖罪は、神の子たちが最終的にはそれに成功するという保証です。
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