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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」より2-5本文
第2章 2-5 奇跡を行う者の機能
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奇跡を行う者たちが、この世界における機能に着手する準備が整ったと言えるようになるには、解放に伴う恐れというものを十分に理解することが極めて重要です。
さもないと、解放とは幽囚されるようなものだという信念を、それと知らずに心に抱くかもしれません。
そして、これは既に極めて一般的に信じられています。
そのように誤って知覚することは、危害を被るのは 身体だけに限ることができると信じることから生じます。
それは、心は自身を傷つけることができるという潜在的な恐れがあるからだと言えます。
このような間違いはどれも意味がありません。
なぜなら、心が誤って創造したものは実際には存在しないからです。
こう再認識することは次元を混同したどんな形態よりも、遥かに優れた保護の手立てと言えます。
というのは、間違いそのものがある次元で、まず訂正を取り入れるからです。
ただ心だけが創造できるのであり、訂正は思考の次元でなされると覚えておくことは極めて重要です。
前に述べたことを強調するなら、霊(Spirit)は既に完全なものであり訂正される必要などないということです。
身体は心が学ぶ為の手立てとしてのみ存在します。
この学びの手立ては創造することが出来ないので、それ自体が間違いの種にはなりません。
ならば、心が誤って創造したものを諦めさせることが、ただ一つ本当に有意義な創造能力の応用方法であることは明白です。
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思慮に欠ける、または誤って創造することに心を使うことを魔術と言います。
物質的薬物治療法は言わば「呪文」の形態ですが、もし、心を使って癒すのを恐れているのであれば、それを試みるべきではありません。
恐れているという事実によって、あなたの心を誤って創造しようとする誘惑から弱くなるからです。
したがって、何らかの癒しが生じたとしても、それを誤解し、その上自己中心的になることと恐れは普通一緒に起こるので、癒しの本当の源を受け入れることができないかもしれません。
このような状況では、一時的に、物質的な癒しの手立てを頼みにする方があなたにとってはより安全でしょう。
というのも、そのような手立てを自分が創造したものだと、誤って知覚することはできないからです。
誘惑に弱いという意識が執拗に続く限り、奇跡を行おうとしてはなりません。
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私が既に述べたように、奇跡を行う気持ちの現れが奇跡であり、奇跡を行う気持ちがあるとは心が正しい状態にあることを意味します。
心が正しい状態にある者は、奇跡を行う者または奇跡を受ける者の心を、賞賛することもなければ軽視することもありません。
しかし、奇跡は訂正することを意味するので、それを受ける者の心が正しい状態になるのを待つ必要はありません。
実際には、奇跡の目的はその人を自分の正しい心へと戻すことです。
しかし、奇跡を行う者においては、例え短い時間であったとしても、心が正しい状態であることが極めて重要です。
さもなければ、誰か他の人の心を正しい状態に回復させることできないでしょう。
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自分自身の準備が出来ているという意識を頼りにして癒す者は、自分の理解力を危うくしていることになります。
自分の準備ができているかどうかを全く気にすることなく、ただ私の準備ができていることを絶えず信頼し続ける限りあなたは絶対に大丈夫です。
もし、あなたの奇跡を行おうとする気持ちが適切に働いていないとしたら、それはいつでも恐れが心の正しい状態に侵入して、それを逆転させてしまっているからです。
どんな形であれ、心が正しい状態にあると言えないなら、それは全て自分のための贖罪を受け入れることを拒否した結果です。
もし、あなたが贖罪を確かに受け入れたなら、あなたは癒しを必要とする者たちとはただ、心の正しい状態が癒しであるということをまだ悟っていないだけであるということが理解できるようになります。
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奇跡を行う者がただ一つ責任を持つべきことは、自分自身の為に贖罪を受け入れるということです。
それは、心が唯一の創造の次元であり、心の間違いは贖罪によって癒されると認めることを意味します。
一旦これを受け入れれば、あなたの心はただ癒えるだけとなります。
自分の心に潜在するどんな破壊的な力も否定し、純粋に建設的な力を取り戻すことによって、あなたは他の人たちが混同している次元を元通りにすることができる立場に据えられます。
そこでは、その人たちの心も同様に建設的であり、誤って創造したものがその人たちを傷つけることはできないという真理をあなたは伝えます。
これを肯定することによって、あなたは学びの手立てを過大評価することから心を解放し、学ぶものとしての真の立場へと心を戻します。
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もう一度、強調しておきたいことは、 身体は創造せず、同様に学習することもないということです。
身体は、学びの手立てとして単に学ぶ者に従うだけであり、もし、間違って 身体に率先力があると考えたなら、学習を促進するどころか、返って酷く妨げることになります。
ただ心だけが光明を受け取ることができます。
霊(Spirit)は既に光明に満たされていますが、 身体自体ではあまりにも鈍いのです。
しかしながら、 身体は学ぶものではないので学びにそぐわないと心が認めることによって、心の光明を 身体にもたらすことができます。
しかも、 身体を越えて光に向かって見つめることを学んだ心によって、 身体は容易に同調させられるのです。
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矯正的な学習はいつも、まず霊(Spirit)に目覚めて 身体の視野で見えるものを信じるのをやめることから始まります。
これが必然的に恐れを伴うことはよくあります。
それは、霊(Spirit)としての見方が自分に見せようとすることをあなたが恐れているからです。
私が以前に述べたように、 聖霊は間違いを見ることはできず、ただそれを越えて贖罪の防衛に目を向けることができるだけです。
それは間違いなく不安を生じるでしょう。
しかし、この不安が知覚に伴う最終的な成り行きではありません。
聖霊は祭壇が汚されているのを見ることが許されたなら、すぐに贖罪の方も見つめます。
聖霊が知覚するものに、何一つ恐れを抱かせるものはありません。
霊(Spirit)として自覚した結果起こることは全て、ただ訂正することに向けられるだけです。
不安な気持ちになるのは、ただ訂正が必要だということを自覚させるためです。
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結局、癒しに対する恐れが生ずるのは、癒しが必要であるということを何も疑わずに受け入れる気持ちになれないからです。
身体の目で見るものは矯正できるものではなく、物質として見えるどんな手立ても、間違いを正すことはできません。
あなたが 身体の目で見えることを信じる限り、正そうとする試みは誤った方向に向けられるでしょう。
本当の心眼は不明瞭になっていますが、それはあなたが自分自身の汚された祭壇を見ることに耐えられないからです。
しかし、祭壇が汚されてしまったからには、それをはっきりと知覚しなければ、あなたの状態は二重に危険なものになってしまいます。
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癒しは分離した後でもたらされた能力であって、それ以前には必要なものではありませんでした。
空間と時間に対する信念が持つ全ての側面がそうであるように、癒しは一時的なものに過ぎません。
しかし、時間が持続する限り、癒しは保護するための手段として必要です。
それというのも、癒しは同胞愛というものに基づくからであり、その同胞愛とは、たとえ自分自身を完全であると知覚できないとしても、他の人を完全であると知覚する方法です。
今あなたが持つことのできる高尚な概念は、ほとんど時間に依存しています。
実のところ、同胞愛は今のあなたに想像できるどのような形の同胞愛をも遥かに越えた、もっと力強い愛の包含性を、不十分とはいえ反映しています。
限られた意味で、同胞愛は心の正しい状態でいるためには極めて重要であり、それによって今その状態に達することができるのです。
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同胞愛は他の人を、その人が実際に時間の中でなし遂げたと思っているよりもはるか遠くまで、既に進み終えているかの如くに見なす方法とも言えます。
その人自身の考え方は欠けたところがあるので、自分で贖罪を見ることができずにいます。
そうでなければ、同胞愛など必要としないでしょう。
その人に授けられる同胞愛とは、その人には助けが必要だと承認すると同時に、そうした助けを受け入れるだろうと認めることです。
こうした知覚は両方とも、明らかに時間に依存していることを意味しており、同胞愛はまだこの世界に限られているということは明白です。
私が前に述べたように、啓示だけが時間を超越します。
同胞愛の側面を表している奇跡には、その時間を縮めることができるだけです。
しかし、理解する必要があるのはあなたが他の人に奇跡を申し出る時は、あなたとその人の両者の苦しみを短くしているのだということです。
こうしたことは、これからのことは勿論、過去に遡って訂正することになります。
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