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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」より2-6本文
第2章 2-6 恐れと葛藤
ACIM-Text- chapter2-6-1
恐れを抱くということは、まるで自分では抑制できないことであるかのように、不本意にそうなってしまうように思えます。
けれども、私が既に述べたように、物事の向上を図る為の行為のみ、期せずしてなされるべきです。
もし、あなたがそれを選択するなら、重要でないものは何でも私が抑制し、それと同時に重要なものはどれも皆私が指導して導きます。
恐れを私が抑制するということはできませんが、あなた自身が自制することはできます。
私の抑制力をあなたに与えるのを妨げるのも恐れです。
恐れているということは、 身体についての思いを心の次元へと上げてしまったことを示します。
こうすることで、そうした思いを私の抑制力から離して、自分に個人的な責任があるように感じさせます。
これは明らかに次元を混同していることになります。
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私が次元を混同するような思いを助長することはありませんが、あなたはそれを正すことを選ばなければなりません。
あなたは、自分の気違いじみた振る舞いを、そうせずにはいられなかったなどと言って弁解はしないでしょう。
では、どうして気違いじみた考えを許容すべきでしょうか。
あなたは、このように混同していることをはっきりと見ることが賢明です。
あなたは、自分が為すことには責任があるけれども、考えることには責任がないと信じているかも知れません。
本当は考えることにこそ責任があるのです。
というのも、選択権を行使できるのはただこの次元においてだけだからです。
あなたの考えが行動に先立つということです。
自分の振る舞いに自主性を「与えた」からといって、自分を真理から分離できるものではありません。
あなたが自分で考えることを私が導けるようにするなら、自動的にこうしたことを私が抑制します。
恐れを抱いている時は、いつでもあなたが自分の心に誤って創造させて、私に任せて導かせなかったという確かなしるしです。
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誤った思考の成り行きを抑制すれば、結果的に癒しを生じることができると信じるのは意味の無いことです。
あなたが恐れを感じるときは、間違って選んでしまったということです。
それによって自分に責任を感じるのです。
変えなければならないのは自分の心であり、振る舞い方ではありません。
そしてこれこそ意欲の問題です。
あなたは心の次元を除いては導きなど必要としていません。
訂正することが相応しいのは、変わることができる次元だけです。
症状として表われる次元における変化には何の意味も無く、そこでは役に立ちません。
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恐れを訂正することは正にあなたの責任です。
恐れから解放されたいと頼むということは、自分の責任だと思っていないということを暗示しています。
それよりも、そうした恐怖感をもたらした理由について助けを求めるべきです。
こうした理由にはいつも、必然的に自分から分離しようとする気持ちが伴います。
その次元でなら、疑いなくあなたが何とかすることができるでしょう。
あなたは自分の心があれこれ迷うことに対してあまりにも寛容であり過ぎていて、心が誤って創造したものをただ受け入れて許容しています。
個々の結果は仕方がないですが、根本的な間違いに対して仕方がないと言ってはいられません。
訂正することはいつも同じです。
何かしようとして選ぶ前に、あなたの選択が私の選択と一致しているかどうか、私に聞きなさい。
もし、一致しているということが確かなら、恐れはないでしょう。
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恐れを感じるのは必ずと言っていいほど、神経を張り詰めているというしるしであり、自分の望むことと、していることが矛盾する度に生じます。
こうした事態が生じるプロセスは二通りあります。
第一には、矛盾することを同時にするかあるいは引き続いてするかを選べる時です。
これが矛盾した振る舞いを起こさせ、そうすると他の事をしたいと望む心の部分が憤慨するので、自分にとって耐えられなくなります。
第二には、たとえそうしたいと本当に望んでいなかったとしても、自分がそうすべきであると思うように振る舞う時です。
こうすれば首尾一貫して振る舞うことにはなりますが、かなりの緊張感を伴うのも必然的です。
どちらの場合も、心と振る舞いとが一致していないので、結果的には自分が心の底から望んでいないことをしているという事態になります。
こうした事態は強制されたような感じを喚起させることになり、それはいつも激しい怒りを生み出し、その上、投影されることが続きやすいのです。
恐れを感じる時はいつも、あなたがまだ決断をしていないからです。
したがって、心は分離しており、あなたが常軌を逸した振る舞いをするようになることは免れません。
振る舞い方の次元での訂正は、第一の間違いの形体から第二の間違いの形体へと移行することはできますが、恐れそのものを忘れさせることはないでしょう。
ACIM-Text- chapter2-6-6
あなたが意識的に努力しなくても、あなたの心を私の指導に任せることができる状態に達することはできますが、その意志を今のところあなたが持っているとは言えません。
そこには、自分から進んでやろうとする気持ちを要するという意味が含まれています。
聖霊はあなたが自分で進んでしようとすること以上のものを求めるわけにはいきません。
何かを行うための力というものは、それだけに専心しようとする決断力からきます。
神の意思は自分自身のものでもあると認めれば、その意思に従うのに負担を感じることはなくなります。
ここに述べた学びはとても明白ですが、特に見落されがちです。
したがって、もう一度伝えるので、しっかりと聞きなさい。
恐れを生み出すことができるのは自分の心だけです。
心の望むことが矛盾するときには必ず恐れを生み出すのであり、望むことと行うことが一致していないので、負担に感じるようになるのを免れません。
こうしたことは、統一されたゴールを受け入れることによってのみ正すことができます。
ACIM-Text- chapter2-6-7
この間違いを元通りにする為の訂正の第一歩は、先ず心の葛藤はそこに恐れがあるということを現していると知ることです。
どういうわけか自分は愛さないということを選んでしまったに違いありません、そうでなければ、恐れなど生じるはずがないと自分に言い聞かせることです。
そのあと、訂正する為の全プロセスは、贖罪を治療法として受け入れるというより大きなプロセスにおいて、実際の歩みが続くだけです。
こうした歩みは次のように要約できます。
まず、恐れていると知ることです。
恐れは愛が欠けているとき生じます。
愛が欠けている時、そのただ一つの治療法は完全な愛です。
完全な愛こそ贖罪です。
ACIM-Text- chapter2-6-8
私が強調しておいたように、奇跡あるいは贖罪の現れというものは、常に尊敬に値する者から尊敬に値する者への敬意のしるしです。
この真価を再認することは贖罪によって再び立証されます。
この為、あなたが恐れを抱いているときには、自分で自分を贖罪が必要な立場に置いたということは明らかです。
愛を伴わないことを行ったのは、愛を持たずに選んだからと言えます。
まさしくこのような事態のためにこそ贖罪が与えられました。
その治療法を必要としたので贖罪が設けられたのです。
ただ治療法が必要だと認めるだけでは、恐れを抱き続けるでしょう。
しかし、その治療法を受け入れれば、それまでの恐れを全く感じなくなっています。
こうして真の癒しが起こるのです。
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誰でも皆恐れを経験します。
けれども、なぜ恐れが起こるのかを悟るには、ほんの少し正しい考え方をするだけです。
心が持っている本当の力の価値を認める者はほとんどなく、そうした力をいつも十分に自覚し続ける者は一人もいません。
しかし、もし、あなたが恐れから免れたいと希望するなら、悟るべきことがいくつかあり、それも十二分に悟らなければなりません。
心というものは極めて強力であり、決してその創造力を失うことはありません。
決して眠りにつくこともありません。
刻一刻と創造し続けます。
思考と信念とが合併して、文字通り山をも動かすことができる力にまで高まるとは認め難いことです。
一見して、自分自身にそのような力があると信じることは傲慢なように見えますが、これがそのことを信じない本当の理由ではありません。
あなたは、実際それほどの思考力に恐れを抱いているので、自分の思考力は本当の影響力など発揮できないと信じたがるのです。
こう信じれば、罪悪感は軽くなって気付かない程になるかもしれませんが、それは心を無力だと認めるという犠牲を払っています。
もし、自分が考えることには効力がないと信じたなら、恐れを抱かなくなるかもしれませんが、そのような考えを尊重することはほとんどなさそうです。
無為な思考など全くありません。
考えることは全て、何らかの形で出てくるのです。