奇跡講座マニュアル編22. 癒しと贖罪にはどのように関連しているのでしょうか

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編22 本文

 

22. 癒しと贖罪にはどのような関連があるのでしょうか

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癒しと贖罪は、関連しているのはありません。

それらは同じものです。

奇跡に難しさに順序はないという理由は、贖罪には程度の差がないからです。

これは、この世界において可能な唯一の完全な概念です。

なぜなら、それこそ全面的に統合された知覚の源だからです。

部分的な贖罪があるとするのは無意味な概念です。

それはちょうど、天国の中に特別な区域として地獄があるということなど考えられないのと同じことです。

贖罪を受け入れなさい。

そうすれば、あなたは癒されます。

贖罪は神の言葉です。

神の言葉を受け入れなさい。

そうすれば、病気を可能とするものは何が残るでしょう。

神の言葉を受け入れなさい。

そうすれば、あらゆる奇跡が達成されたことになります。

赦すこととは、癒すことです。

神の教師は、自分自身のために贖罪を受け入れることを自らの唯一の機能として受け入れました。

だとすれば、その人に癒すことのできないものなどあるでしょうか。

その人に与えられないままとなる奇跡などあるでしょうか。

 

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神の教師の進歩は、遅くもなれば早くもなります。

それは、その人が贖罪の包括性を認識しているか、あるいは、しばらくはいくつかの問題領域をその包括性から除外しているかどうかに左右されます。

ある場合には、贖罪のレッスンは全ての状況に申し分なく当てはまると完全なる自覚が突然訪れることもありますが、これは比較的まれです。

神の教師は、神から与えられた機能を受け入れてからでも、長い間その受容が差し出しているものの全てについては分からずにいることもあります。

確実なことは、その最終的な到達地点だけです。

その途中のどこかで、包括的なものだという不可欠の認識がその人に訪れることでしょう。

その道のりが長く思えたとしても、その人はそれで満足すべきです。

自分の進みたい方向について、その人は決断しました。

それ以上の何がその人に求められていたでしょうか。

それに、求められたことを果したのであれば、神がその他のものを与えずにおくようなことがあるでしょうか。

 

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神の教師が進歩するためには、赦すことは癒されることであると理解する必要があります。

身体は病気になり得るという考えは、 自我の思考体系の中心的な概念です。

こうした考えが 身体に自律性を与え、 身体を心から分離し、攻撃という概念を侵しがたいものとして保たせることになります。

もし、 身体が病気になることが可能であるとすれば、贖罪は不可能となります。

身体 身体自身に相応しいと考えることを心に命令できるとしたなら、 身体はただ神の座を奪い、 救済が不可能だと証明できるということになります。

そうなったら、何が癒すべきものとして残っているというのでしょう。

身体が心の支配人となってしまいました。

身体が殺されない限り、どうやって心が 聖霊に帰ることができるでしょう。

そして、誰がそんな代価を払ってまで、救われたいと望むでしょう。

 

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確かに、病気は決断であるようには見えません。

それに、誰も自分で病気になりたいと望むなどとは、実際には信じません。

おそらくその考えは、理論的には受け入れられるかもしれません。

しかし、それを個々人が自分自身だけでなく他の全ての人の知覚において、この考えが病気の具体的な形態の全てに一貫して当てはめられることは、仮にあるとしてもごく稀です。

それに、神の教師が癒しの奇跡を生じさせるのは、この段階においてではありません。

その人は、心と 身体のどちらも見過ごして、自分の目の前で輝く キリストの顔だけを見て、あらゆる間違いを訂正し、あらゆる知覚を癒します。

癒しは、癒しを必要としているのが誰なのかを、神の教師が認識することによってもたらされる結果です。

この認識は、何か特別なものを対象としているものではありません。

それは、神が創造した全てのものについての真実です。

この認識の中で全ての幻想が癒されるのです。

 

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神の教師に癒しに失敗することがあるとすれば、その理由はその人が自分は誰であるかを忘れてしまったからです。

したがって、他の人の病気が自分自身の病気となります。

こうなることを容認してしまうと、その人は他の人の 自我と自分を同一視し、そして自分自身と 身体と混同してしまっています。

そうすることで、その人は自分に贖罪を受け入れることを拒否してしまい、 キリストの名においてそれを自分の兄弟に差し出しることがほとんど出来なくなっています。

実際のところ、その人は自分の兄弟を認識することがほとんど出来なくなっています。

というのも、その人の父は 身体を創造したことはなく、それゆえに、その人実在しないものだけをその人の兄弟の中に見ていることになるからです。

間違いが間違いを訂正することはなく、歪んだ知覚は癒すことはしません。

神の教師よ、今、一歩後ろに退きなさい。

あなたは、間違っていました。

あなたは、道に迷ったのだから、先導してはなりません。

今すぐあなたの教師の方を向いて、あなた自身を癒してもらいなさい。

 

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贖罪は、あらゆるところに差し出されています。

それは、どのような状況にあるいかなる個人にも、同様に適応できます。

そして、全ての個人をいかなる形態の病気からも癒す力があります。

このことを信じないということは、神に対して不当ということであり、したがって神に対して不誠実だということです。

病気の人は、自分自身が神から分離していると知覚しています。

あなたは、その人があなたから分離していると見たいでしょうか。

あなたに課せられた仕事は、その人を病気にさせた分離という感覚を癒すことです。

その人が自分自身について信じていることは真実ではないと、その人に代わって認識することがあなたの果たすべき機能です。

あなたの 赦しが、必ずこれをその人に示すことになります。

癒しは非常に単純です。

贖罪は受け取られ、差し出されます。

受け取られたのであれば、それは受け入れられているに相違ありません。

では、受け取ることの中に、癒しがあるということになります。

他のことは全て、この唯一の目的の後に続きます。

 

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一体誰が、神ご自身の力を制限できるでしょう。

では、どの人が何から癒されることが出来るか、何が神の癒しの力の及ばない所に留まらなければならないか、といったことを誰が語れるでしょう。

そのようなことは、まさしく狂気です。

神の教師の裁量で、神に限界を課すことは出来ません。

なぜなら、神の子に裁きを下すことは、神の教師の裁量に任されてはいないからです。

そして、神の子を裁くということは、父を限定することになります。

両方とも、同じように無意味なことです。

しかし、神の教師がそれらは同じ間違いだと認識するまでは、このことが理解されることはありません。

この認識において、神の教師は贖罪を受け取ることになります。

なぜなら、その人は神の子に対する裁きを取り下げ、神の子を神が創造したままのものとして受け入れるからです。

もはやその人は、どこに癒しが与えられ、どこに与えずにおかれるべきか、を判断して、神から離れて立つことはなくなります。

今や、その人は神と共に、「これは私の愛する子、完全無欠に創造され、永遠にそのままであり続ける人である」と言うことが出来るのです。

 

奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編の目次

マニュアル編(教師のためのマニュアル)目次

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

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