奇跡講座テキスト編2章 2-4 恐れからの解放としての癒し

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」より2-4本文

 

第2章 2-4 恐れからの解放としての癒し

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これから強調することは、癒しについてです。

奇跡は手段であり、贖罪は原理であって、癒しがその成果です。

「癒しの奇跡」という言い方は、実在の二つの次元を適切とは言えない方法で併合することになります。

癒しは奇跡ではありません。

「贖罪」または「最終的な奇跡」とは治療法であって、どのような種類の癒しもその成果です。

贖罪が適用される間違いの種類がどんなものであろうと関係ありません。

全ての癒しは、本質的に恐れから解放されることです。

これを為すには、あなた自身が恐れていてはなりません。

癒しを理解できないのは自分が恐れているからです。

 

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贖罪の計画における主要な段階は、全ての次元で「間違いを修復」することです。

「病気」あるいは「心が正常ではない状態」は次元を混同した結果と言えます。

なぜなら、それには「ある次元において不都合なこと」は、「他の次元にも不利に影響を与えられる」という信念をいつも伴うからです。

奇跡は次元の混同を正す手段だと言ったことがあります。

というのも、間違いは全て、それが起こった次元で正す必要があるからです。

間違いを犯すのは心だけです。

身体が間違って行動できるのは、誤った思考に応じている時だけです。

身体は創造することはできませんが、それができるというそのような信念の根本的な間違いが全ての 身体的症状を生じさせます。

身体が病むとは魔術を信じているということの現れです。

魔術を作り出した全体の歪みは、物質の中に創造能力があり、その能力を心で制御することはできないという信念に基づいています。

こうした間違いは二つの形態を取り得ます。

例えば、「心が 身体の中で誤って創造できる」ということや、「 身体が心の中で誤って創造できる」ということを信じたりします。

唯一の創造の次元である心が、「心そのものを超えて創造できない」ということを理解したなら、どちらの混同も起こる必要はありません。

 

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霊(Spirit)は既に創造されているので、心のみが創造できるのであり、 身体は心が学ぶ為の手立てです。

学ぶ為の手立てとなるもの自体は学びではありません。

その目的はただ単に学びを促すことです。

学びの手立てであるものを使い損ねて、最悪のことが起こるとすれば、それは学びを促すことができないというだけです。

そうした手立て自体には実際に間違って学ばせる力など持ってはいません。

もし、正しく理解されれば、 身体は両刃の剣の応用に対しても贖罪が持っているような「傷つけられることのない強み」を持っていると分かります。

これは「 身体が奇跡」だからではなく、「 身体は本来、誤って解釈される余地などない」からです。

身体は単に物質世界において、「あなたが経験する部分」に過ぎません。

身体の持つ能力は過大評価されることが有り得ますし、確かに度々過大評価されています。

しかしながら、この世界では 身体の存在を否定することはほとんど不可能です。

それを否定する者たちは、とりわけ価値の無い形で否認していると言えます。

ここで「価値の無い」という用語は、「ただ無関心なものを否定することなので、心を保護する必要はない」という意味を含んでいるだけです。

もし、心の力が持つこの一見望ましくない一面を否定するならば、その力そのものをも否定することになります。

 

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身体の病を癒す方法として、あなたが受け入れている物質的手段は全て、言わば魔術の原理を置き換えたようなものです。

これは 身体自体が病気の元であると信じこむようになる第一段階と言えます。

それを創造的ではない処方によって癒そうとすることは二番目の過失です。

しかし、誤りを正すという目的の為にそのような処方を使うことが邪悪だということにはなりません。

時には、病が心を支配してしまう程の力を持つことがあり、一時的とはいえ、その人を贖罪に近付けなくします。

こうした場合には、心と 身体の為に妥協して、外的な何かにより一時的に癒す力があると信じることで対処することが賢明と言えるかもしれません。

なぜなら、心が正常ではない状態にある者、あるいは病人にとって、その人たちの恐れを増すようなことは、全く助けに役立たないからです。

それでなくてもその人たちは、恐れの為に弱り切った状態になっています。

もし、時期尚早に奇跡を目にしたら、狼狽えさせることになりかねません。

これは、逆さまに逆転した知覚が、奇跡はぞっとするほど恐ろしいものだ、と信じこませてしまった時、こうしたことが起こり得ます。

 

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贖罪の価値というものは、それがどのような在り方で表現されるかには関係がありません。

事実、もし、それが心から使われたなら、きっと受け手にとって最も役立つような形で表現されるでしょう。

これは、奇跡が持つ効果を最大限に達成するには、「受け取る者が恐れを感じることなく理解できるような伝達手段で、表現されなければならない」ということを意味します。

必ずしも、これがその人にできる最高の次元の意思の疎通という訳ではありません。

しかし、今のその人にできる最高の次元の意思の疎通であるということです。

奇跡が全面的に目指すことは意思の疎通を行う次元を上げることであり、恐れを増すことによって次元を下げることではありません。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第2章「分離と贖罪」目次

2-1   分離の起源

2-2   防衛としての贖罪

2-3   神の祭壇

2-4   恐れからの解放としての癒し

2-5   奇跡を行う者の機能

2-5-A   奇跡を行う者たちの特別の原則

2-6   恐れと葛藤

2-7   原因と結果

2-8    最後の審判の意義 

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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