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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第23章「自分との戦い」23-3本文
第23章23-3妥協なき 救済
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攻撃が纏うことの出来る形の中には、あなたがそれと認識しないような形があることは真実ではないでしょうか。
そして、もしどんな形の攻撃であれ、あなたを傷つけ、しかも、あなたに認識できる他の形の攻撃と同じくらいあなたを傷つけるということが真実であるなら、あなたは苦痛の起源を常に認識しているとは限らないということになります。
攻撃はどんな形のものであれ、等しく破壊的です。
その目的は変わりません。
その唯一の目的は殺害です。
そして、どんな形の殺害ならば、殺害者が必ず背負うことになる膨大な罪悪感や処罰に対する狂おしいばかりの恐れを覆い隠す役に立つというのでしょうか。
その人は自分が殺害者であるということを否認し、微笑を浮かべながら殺害することで、自分の残忍さを正当化するかもしれません。
それでもその人は苦しみ、自分の意図を悪夢の中で見ることになるでしょう。
その中では、微笑みは消えうせ、その意図が恐れ慄くその人の自覚に浮かび上がり、どこまでも追いかけてくるでしょう。
なぜなら、殺意を抱く者が、その想念に伴う罪悪感を免れることはないからです。
意図されているのが死であるなら、それがどのような形をとるかが問題になるでしょうか。
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いかに素晴らしく慈悲に満ちて見えたとして、何らかの死の形が祝福でしょうか。
神を代弁する声があなたを通して兄弟に語りかけていることのしるしでしょうか。
包み紙は、あなたが贈る贈り物にはなりません。
空の箱は、どんなに美しくても、どれほど優しく贈られても、中に何も入っていないことには変わりがありません。
受け取る者も与える者も、いつまでも騙されたままではいません。
兄弟に 赦しを与えずにおくなら、あなたはその人を攻撃しています。
あなたはその人に無を与え、自分が与えたものだけをその人から受け取ります。
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救済はどのような種類の妥協でもありません。
妥協するとは、自分の望むものの一部のみを受け入れることであり、少しだけ受け取って、残りは諦めるということです。
救済は何も諦めません。
それは、誰にとっても完全なものです。
妥協という考えを入り込ませるだけで、 救済は認識されなくなるので、 救済の目的についての自覚は失われてしまいます。
なぜなら、妥協とは、 救済が不可能であるという信念だからです。
それは、あなたが少し攻撃し、少しだけ愛しながら、攻撃と愛との違いを知ることが出来ると主張します。
したがって、それは、同じものの中の少しの部分が違うものとなることができ、しかもその同じものは損なわれずひとつのものとして存続すると教えていることになります。
このようなことが意味をなすでしょうか。
それは理解できるものでしょうか。
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このコースは、全く妥協しないからこそ易しいのです。
しかし、依然として妥協は可能だと信じている者たちにとっては、難しく見えます。
もし、妥協が可能だとすれば、 救済は攻撃を意味するということになることが、その人たちには分かりません。
しかし、 救済は不可能だとする信念は、 救済は既に訪れているという静かで穏やかな安堵感を支えるものではないことは確かです。
赦しが少しだけ与えずにおかれるということは、不可能です。
それに、あることのためには攻撃し、別のことのためには愛しながら、 赦しを理解することは出来ません。
どのような形であれ自分に為される攻撃を認識することによってのみ、平安を見失うことがなくなるのだとしたら、あなたはそれを認識できるようになりたくないでしょうか。
あなたが平安を防衛しなければ、平安は決して見失われることはなく、あなたの心眼の前で、永遠にはっきり輝き続ける事が可能です。
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平安を防衛できると信じ、そのための攻撃は正当化されると信じている者たちは、平安が自分自身の中にあることが知覚できません。
どうしてその人たちに知ることが出来るでしょう。
その人たちは、殺害の形の中には自分たちの平安を救う手段となるような形もあるという信念を持ったまま、 赦しを受け入れることが出来るでしょうか。
自らの残忍な目的が自分に向けられているという事実を、その人たちは受け入れようとするでしょうか。
誰も、敵と手を結ぶことはないし、目的において敵と一つになるということもありません。
そして、敵と妥協している者の中で、依然として敵が自分に与えずにしまっておいたもののゆえに敵を憎んでいない者はいません。
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戦いが中断していることを平安だと取り違えてはなりません。
それに、妥協を葛藤からの脱出だと誤解してはなりません。
葛藤から解放されるということは、葛藤が終わったという意味です。
扉は開かれていて、あなたは戦場から立ち去りました。
銃声が暫し静まり、死の場所に漂う恐れの気配が薄らいだといって、あなたはもう葛藤が戻ってはこないだろうという弱々しい希望を抱いてそこに長居することはしませんでした。
戦場に安全はありません。
上空からであれば安全にそこを見下ろし、その影響を受けずに済みます。
しかし、そのただ中にあっては、安全は見つかりません。
倒れずに残った立ち木の一本も、あなたをかくまってはくれないでしょう。
保護してくれているかのように見える幻想は、どれ一つとして殺害に対する信に対抗できるものではありません。
意志の疎通を望むという自然な欲求と、他人を殺して自分も死ぬという不自然な意図との間で板ばさみになった 身体がここにあります。
殺害が纏っているその形が安全を提供してくれるとあなたは思うのでしょうか。
罪悪が戦場に不在だということが有り得るでしょうか。
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