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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第23章「自分との戦い」23-4本文
第23章23-4戦場を越えたところ
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葛藤の中に留まってはなりません。
攻撃を伴わない争いは有り得ません。
神に対する恐れとは、生命に対する恐れであって、死に対する恐れではありません。
それでも、神が唯一の安全な場所であることに変わりありません。
神の中に攻撃はなく、いかなる形の幻想も、天国に忍び寄ることはありません。
天国は完全に真実です。
何の差異も入り込むことはなく、全て同一であるものが葛藤することは有り得ません。
あなたには、殺したいという自分の願望と闘う事が求められているのではありません。
そうではなく、ただそうした願望が繕っている形が、殺そうという企みを隠蔽していると気づくことが求められているのです。
そして、あなたが恐れているのは、これであり、その形ではありません。
愛でないものは殺害です。
愛のないものは攻撃でしか有り得ません。
幻想はどれも真理に対する攻撃であり、それが愛と同じように真理であるように見えるので、愛の概念を冒涜します。
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真理と同じでありながらも違っているというものが有り得るでしょうか。
殺害と愛は両立不可能です。
しかし、もしこの両方とも真実だとすれば、その二つは同一であり、見分けがつかないはずです。
神の子を 身体と見る者たちにとっては、そのように両者の見分けがつかなくなります。
なぜなら、神の子の創造主と同質だというのは、 身体のことではないからです。
そして、生命なきものは生命の子では有り得ません。
身体を拡張させていき、その中に宇宙を包み込むことが出来るでしょうか。
身体は、創造する主体であると同時に自ら創造される対象でも有り得るでしょうか。
そして、自ら創造したものに対し、自らの創造の全てを差し出し、それでも損失を被らずにいられるでしょうか。
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神は自らの機能を 身体と分かち合うということはしません。
創造するという事が機能であるから、神が我が子にその機能を授けました。
神の子の機能が殺害だと信じる事は罪深いことではありませんが、それはまさしく狂気です。
同一であるものが異なった機能を持つことはありません。
創造する事は、神が神自身を拡張させる手段であり、神のものであるものは、神の子のものでもあるはずです。
父も子も共に殺害者であるか、それともどちらもそうでないか、そのいずれかです。
生命は、それ自体と同じものを創造するのであり、死を作り出すことはしません。
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あなたの関わる関係が持つ素晴らしい光は、神の愛と同質のものです。
しかし、それはまだ、神が神の子に与えた神聖な機能を担うことが出来てはいません。
なぜなら、兄弟に対するあなたの 赦しは完全ではなく、したがって、その光が被造物全体にまで拡張されないからです。
未だにあなたが魅了され、その正体を認識していない殺害と攻撃の形があり、その一つひとつが、本来あなたが全ての者へと拡張させていくことが出来るはずの癒しと奇跡を制限しています。
しかし、 聖霊はあなたの小さな贈り物を増強させ、力強いものとする方法を理解しています。
その上、どうすればあなたの関わる関係が戦場を越えた高みまで引き上げられ、もはやその中に留まらなくなるかを、 聖霊は理解しています。
そして、あなたの役割は、どんな形の殺害も自分の意志ではないと認識することです。
戦場を上から眺めることが、今ではあなたの目的です。
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高みへと引き上げてもらい、そこから、戦場を見下ろしなさい。
そこからあなたが展望するものは極めて違ったものとなるでしょう。
戦場の真っ只中であるここにおいては、戦場は実在するように見えます。
ここでは、あなたがその一部となることを選択しています。
ここでは、殺害があなたの選択です。
しかし、高みからの選択なら、殺害ではなくて奇跡です。
そして、この選択から生じる視座は、戦闘は実在することはなく、容易にそこから逃れられるということを、あなたに見せてくれます。
身体同士は闘うのでしょう。
しかし、形態同士の衝突は無意味です。
そして、戦闘は始まってさえなかったとあなたが気づく時、それは終わりとなります。
あなたが戦闘に参加しているのなら、その最中にどうして戦闘は実在しないと知覚できるでしょう。
もし、あなたが殺害を選択しているのなら、どうして奇跡が真理であると認識できるでしょう。
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攻撃への誘惑が生じて、あなたの心を闇と殺意で満たそうとする時、自分で戦闘を高みから見ることが可能だと思い出しなさい。
形において認識できなくても、あなたはそのしるしをなら知っています。
刺すような痛みとか、罪悪感の疼き、そしてとりわけ平安の喪失といったしるしです。
こうしたことをあなたはよく知っています。
それらが起こった時には、高みにあるあなたの場所から離れることなく、すぐさま殺害の代わりに奇跡を選択しなさい。
そうすれば、神ご自身と天国の全ての光が、優しく寄り添い、あなたを支えてくれるでしょう。
なぜなら、あなたは神があなたに居てほしいと思う場所に留まることを選択したからであり、いかなる幻想も神の子と共にある神の平安を攻撃できないからです。
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誰にせよ、その人を戦場から見てはなりません。
そこでは、存在してもいない場所から相手を見ることになるからです。
その時、あなたには、見るための判断基準となるものや、自分が見ているものに意味を付与できる基準が何もありません。
身体だけが攻撃や殺害可能なのであり、もしそうしたことがあなたの目的だとすれば、あなたは 身体と一体になっているに違いありません。
目的だけが物事を統一します。
それゆえに、一つの目的を分かち合う者たちは、心を一つにしています。
身体はそれ自体には何の目的もなく、孤立しているしかありません。
下の戦場からは、 身体を超越することは出来ません。
戦場の上からであれば、未だに戦闘の中にいる者たちに 身体が課している制限はなくなっていて、知覚されることはありません。
身体には目的がないからこそ、父が子のために創造した天国と、父自身との間に、 身体が立ちはだかっているのです。
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父の目的を分かち合い、それを自分のものと知る者たちに、何が与えられているのか考えてみなさい。
その人たちは、何も不足していません。
どのような種類の悲しみも考えられません。
その人たちの愛する光だけが自覚され、永遠に愛だけがその人たちの上に輝きます。
それが、その人たちの過去であり現在であり未来であり、この全てが常に同一であり、永遠に完全で、全一に分かち合われています。
その人たちは、自分たちの幸福がどのような変化にもみまわれないということを知っています。
多分、あなたは、自分が勝ち取れる何らかのものを、戦場が提供できると思っているのでしょう。
しかし、その何かとは、あなたに完璧な穏やかさを提供できるものでしょうか。
それは、いかなる疑いが浮かんできてもあなたの確信を決して損なえないほどに、深く静かな愛の感覚をもたらすものでしょうか。
そして、それは永遠に続くものでしょうか。
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神の強さを自らの中に自覚している者たちは、戦闘というものを考える事は出来ません。
そのような事を考えれば、自分の完全無欠性を失うだけです。
戦場で勝ち取られるものはことごとく 身体に関するものです。
すなわち、 身体が提供するかに見える何かか、あるいは 身体が所有するかのように見える何かです。
一切を有することを知っている者は、誰一人制限を追求することはなく、 身体が提供するものに価値を見いだすことも有り得ません。
勝ち取るという事の無意味さは、戦場を下に見降ろす静かな領域からは、極めて明らかです。
一切と葛藤し得るものがあるでしょうか。
そして、それ以下のものしか提供しないにも関わらず、それ以上に望まれるものがあるでしょうか。
神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思う者など誰がいるでしょうか。
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