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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第1章「奇跡の意味」より1-5本文
1-5 全一性と霊(Spirit)
ACIM-Text- chapter1-5-1
奇跡と 身体とがよく似ているのは、どちらも学びの手助けになるという点においてです。
両方とも、それが必要でなくなる状態をもたらすことができるようにするための手助けです。
直に意志の疎通を行うという霊(Spirit)の本来の状態に達した時、 身体も奇跡も役に立たなくなります。
しかし、あなたが 身体の内にいると信じる間は、『愛の伴わない表現経路』か『奇跡的な表現経路』か、そのいずれかを選べます。
あなたは空虚な殻を作ることはできますが、全く何も現さないというわけにはいきません。
待ったり手間取ったり自分を麻痺させたりすることもでき、あるいは自分の創造力を無いも同然にまで減らすこともできます。
しかし、完全に無くすことはできません。
意志の疎通をする仲立ちとなるものを挫くことはできますが、自分の可能性は挫くことはできません。
あなたは、自分で自分というものを創造したのではありません。
ACIM-Text- chapter1-5-2
奇跡を行う気がある者にとって、基本的なルールは必要以上に時間を待たないということです。
時間は無駄に過ごすこともできれば、ただ過ぎ去っていきもします。
したがって、奇跡を行う者は時間を制御するための要素を喜んで受け入れます。
その人は、時間が崩れるごとに、全ての者が『時間から究極的に解放された状態』に近づけることを認識しており、そこでは神の子と父は一体です。
平等であるということは、今ここで平等であるという意味を含んでいるのではありません。
誰もが皆、あらゆるものを持っていると認めれば、一なる子としての身分のために、個々に尽力する必要はもはや無くなります。
ACIM-Text- chapter1-5-3
贖罪が完了した時、与えられている全ての天分は全ての神の子たちで分かち合うことになります。
神は選別する存在ではありません。
全ての神の子は、神の全き愛を持っており、神の全ての贈り物は一人ひとりに同じように、惜しむことなく自由に与えられています。
「あなたたちが、子どもの状態に立ち帰らないなら」という意味は、自分は神に完全に依存していると十分に認めない限り、神の子が父と真に結ばれている時に備わっている本当の力が分からないということです。
神の子たちの特別性は、誰かを除外することによってではなく、全ての人を含むことから始まります。
私の兄弟は全て特別です。
もし、誰かが自分は何かを奪われていると信じるなら、知覚は歪んでしまいます。
これが起きると、神の家族全員または一なる子としての身分の繋がりは弱まります。
ACIM-Text- chapter1-5-4
究極的には、神の家族は一人残らず必ず戻ってきます。
たとえその人が自分を霊(Spirit)の内にあると認識していないとしても、奇跡はなお、その人を祝福し尊ぶので、一人ひとりに戻ってくるようにと呼びかけます。
「神を侮ってはならない」とは、戒めではなく安心させようとする励ましの言葉です。
もし、神に創造された者が少しでも神聖さに欠けていたら、神は侮られているということになるでしょう。
神の創造は完全であり、完全であるという印こそが神聖な姿です。
奇跡は一なる子としての身分を肯定する表現であり、その身分とは全てが完了し、満ち満たされたる姿です。
ACIM-Text- chapter1-5-5
真実であるものは永遠であり、変わることはできなく、変えられてしまうこともありません。
したがって、霊(Spirit)は既に完全であるので変更できないものです。
しかし、心は自ら仕えたいと思うものを選べます。
その選択をする場合の唯一の制限は、二人の主人には奉仕できないということです。
もし、心が選ぶなら、霊(Spirit)の仲立ちとなれます。
しかし、それは霊(Spirit)が自らの創造された思いに従って創造する仲立ちをするということです。
もし、こうすることを自由に選ばないとすれば、心はそれ自体の創造的可能性を保持するとはいえ、自らを権威ある存在の支配下ではなく圧制的に支配するものの下に置くことになります。
その結果、心は閉じ込められてしまうことになります。
暴君は、とかくそれを命ずるものだからです。
心を変えるとは、自分の心を真の権威者が自由にするに任せると言う意味です。
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奇跡はそうした心が私に導かれて キリストに仕えることを選んだというしるしです。
キリストとして満ちあふれた姿こそ、 キリストに従うことを選んだ当然の成果です。
浅い根は全て根こそぎにしなければなりません。
それは、あなたを支えるには十分な深さではないからです。
浅い根はもっと深くすることができ、そうすれば持ち堪えさせられると錯覚することは歪んだ見方の一つですが、これは黄金律を逆にするもとになります。
こうした間違った支えを放棄するにしたがって、一時的に気持ちが落ち着かなくなります。
しかし、物事を逆さまに見て、それを方向付けようとすることほど不安定なことはありません。
ましてや、それを逆にしたままで支えておいて、安定感を増す助けになるものは何もありません。
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