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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第1章「奇跡の意味」より1-3本文
1-3 贖罪と奇跡
ACIM-Text- chapter1-3-1
私は贖罪のプロセスを担当していますが、それを始めることをも引き受けました。
あなたが私の兄弟たちの誰かに奇跡を申し出るときは、自分自身と私に奇跡を申し出るということになります。
あなたを私の前にと言った理由は、私自身の贖罪のためには奇跡を必要とはせず、あなたが一時的に失敗した場合に備えて後ろにいるからです。
贖罪における私の役割は、あなたにはとても正すことができないような誤りを全て取り消すことであり、私がそうしなければ、自分では正すことができないものだからです。
真の自己に目覚めた時、あなた自身も贖罪の一部になるのは当然のことです。
あなた自身と他の者たちの誤りを受け入れたくないという、私の思いをあなたも持っています。
それ故に、あなたもそうした誤りを正す偉大な改革に加わらなければならないのであり、そのためには私の声を聞き、誤りを元通りにすることを学び、正すことに勤めなさい。
奇跡を行う力はあなたのものです。
私がそれを行う機会を用意しますが、自分で覚悟を決めて進んで行わなければなりません。
それを行うということがその能力に対して確信をもたらします。
確信は成し遂げたことを通して得られるものだからです。
そうした能力とは可能性であり、達成したことはその現れです。
そして、神の子供達にとって本来の仕事である贖罪がその目標となります。
ACIM-Text- chapter1-3-2
「天地は過ぎ去る」とは、天と地が分かれた状態のままで続くのではないという意味です。
私の言葉は復活であり、また生命そのものであって、生命は永遠であるから私の言葉が過ぎ去るということはありません。
あなたは『神の御業で』あり、神の御業は本当に愛らしく、かつ本当の愛に満つるものです。
人は自分の胸の中で自分のことをこのように思うべきです。
これがその人の真の姿だからです。
ACIM-Text- chapter1-3-3
赦された者は贖罪のために手助けする者となります。
この人たちは霊(Spirit)に満たされているので、自分も 赦しをもって返すようになります。
解放された者は兄弟を解放することに是非加わるべきです。
これこそ贖罪の計画だからです。
奇跡は、 聖霊に差し出す心が私と一つに結ばれる方法であって、こうして共に神が創造したもの全てを 救済し、解放するために 聖霊に差し出すのです。
ACIM-Text- chapter1-3-4
ただ私だけが差別することなく奇跡を成すことができます。
なぜなら、私が贖罪そのものだからです。
贖罪において、私が指図する役をあなたは受け持つことになります。
どの奇跡を成すべきかを私に聞けばいいのです。
そうすれば無駄な努力をしないで済みます。
それというのも、直に意志の疎通をしながら行動するようになるからです。
『個人差に関与しない』という奇跡の性質は欠くことのできない要素です。
私はそれをいかに応用するかを指導でき、私の導きの下に、奇跡は極めて個人的に啓示を経験することに繋がるからです。
導く者は支配するのではありません。
しかし、確かに指導はするのであって、その後は従う者に任せておきます。
「私たちを試みに会わせず」というのは「自分の誤りを認め、私の導きに従ってそうした誤りを捨て去ることを選ぶように」という意味です。
ACIM-Text- chapter1-3-5
誤りは真理を実際には脅かすことはできず、真理はそうしたことに必ず耐えられます。
ただ誤っているものだけが、実のところ何かにつけて弱いと言えます。
あなたは自由に自分の王国を思い通りの所へ設けられますが、もし、次のことを覚えておけば、正しく選択するのは必然的です。
霊(Spirit)は永遠に恩寵の下にあります。
あなたの実在はただ霊(Spirit)であるのみです。
したがって、あなたは永遠に恩寵の下にあります。
この観点に基づいて、贖罪は全ての誤りを元通りにし、こうすることで恐れの源を根絶します。
神が安心させようとすることを、あなたは脅威と感じるときには、必ず自分が誤って与えたか、誤ったものに対する忠誠心を守ろうとしているからです。
あなたがこうしたことを誰かに投影する時、その人を囚われの身としますが、それはただその人自身が既に侵した誤りを強化する程度にだけです。
こうなったら、その人自身は更に誰か他の人の歪みに対して弱くなります。
しかし、それは自分に対する知覚が既に歪んでいるからです。
奇跡を行う者はその人をただ祝福できるだけであって、こうすることがその人の歪みを元通りにし、牢獄からも釈放することになります。
ACIM-Text- chapter1-3-6
あなたは知覚するものに対して応じ、知覚することに沿うようにと振る舞います。
黄金律は、誰かにしてほしいと思うことを、自分がまずその人に行うようにと求めます。
これは両者の知覚が正確でなければならないということを意味します。
黄金律は相応しく振る舞うための規則と言えます。
正しく知覚しない限り、相応しく振る舞うことはできません。
あなたと隣人とは一つ家族の等しい一員同志なのだから、自分と隣人とをそのように知覚するなら、それ相応に立ち居振る舞い、それ相応に接するでしょう。
自分自身の神聖さをまず知覚し、それから他の人たちの神聖さに目を向けるべきです。
ACIM-Text- chapter1-3-7
奇跡が起きるのは、それに対する心構えの出来た心からです。
一つに結ばれることによって、そうした心は誰のところにでも赴きます。
それは、たとえ奇跡を行う者自身はそれを自覚していないとしてもです。
奇跡が『個人差に関与しない』性質をもつのは贖罪というもの自体の性質がそうだからであり、これが創造されたものをみな創造主と一つに結ぶのです。
あなたの真の姿が現れているとして、奇跡はそうした心を恩寵の元に置きます。
その後、その心は中にいる御主と外にいる見知らぬ人とを歓迎するのは当然となります。
あなたがその見知らぬ人を招き寄せた時、その人は自分の兄弟となるのです。
ACIM-Text- chapter1-3-8
あなたが気づかないうちに、奇跡が何らかの影響を兄弟たちに及ぼすことがあったとしても、それは心配しなくてもよいことです。
奇跡はあなたを必ず祝福します。
あなたに為し遂げるようにと求められていない奇跡も、その価値を失ってなどいません。
そうした奇跡も、やはりあなた自身の恩寵の下にあるとの現れです。
しかし、奇跡がどのように働くかは、私が全計画について完全に知っているので、私の管理に任せるべきです。
本来、『個人差に関与しない』とする奇跡を行う気がある時、それはあなたの恩寵を確保します。
そして、ただどこに授けられるか、それが分かる立場にいるのは私だけです。
ACIM-Text- chapter1-3-9
奇跡は選択的であると言えるとすれば、それはただ自分のために使う者たちへと向けられる、という意味にとった場合だけです。
その人たちは、他の者たちにもそれを差し出すようになることは必然的なので、贖罪のための強い繋がりが融合されます。
しかし、この選択性は奇跡そのものの規模については無視します。
なぜなら、大きさについての概念というものが存在する段階は、それ自体実在的ではないからです。
奇跡は実在についての自覚を回復させることを目指します。
それ故に、もし奇跡そのものが、正すことを目指している誤りを左右する法則で縛られているとしたら、役に立たなくなってしまうでしょう。
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