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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 「第1章奇跡の意味より」1-2本文
1-2 啓示、時間、奇跡
ACIM-Text- chapter1-2-1
啓示は疑いと恐れを停止するように仕向けますが、その停止は完全とはいえ一時的なものに過ぎません。
啓示が反映するものは、神と神の創造したものとの間で最初から行われていた意志の疎通の姿であり、それに含まれているものは 身体関係において求められるような極めて個人的な創造の感覚ですが、 身体的な親密さではそれに達することはできません。
しかしながら、奇跡は純粋に人と人との関係において起こるので、結果として他の人たちと真の親密さというものを生じます。
啓示はあなたを神と直に結び付けます。
奇跡は兄弟と直に結び付けます。
どちらも、意識している状態から発するものではなく、両方ともそこで経験されるものです。
意識することは行動するように仕向ける状態ではあり、意識そのものが行動を呼び起こすのではありません。
あなたには自分で選ぶものを信じる自由があり、何を行うかであなたが何を信じているかを立証するのです。
ACIM-Text- chapter1-2-2
啓示は極めて個人的なものであり、それを分かるように説明することはできません。
だから、それをどのような言葉で描こうとしても不可能です。
啓示はただ経験するようにと仕向けるに過ぎないのです。
その一方、奇跡は行動するようにと仕向けます。
奇跡は今ここでこそ役に立ちますが、それは人と人との関係において起こるという本質を持っているからです。
学び始めたばかりのこの段階では、奇跡を行うことが大切です。
なぜなら、恐れから自由になることをあなたに押し付けるようなことはできないからです。
啓示は文字通り言葉では表現しきれません。
というのも、啓示とは言葉に表せない愛を経験することだからです。
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畏敬の念は啓示のために取っておかれるべきでしょう。
啓示にはそれが全く正しく当てはまります。
奇跡に対しては、それは相応しいとは言えません。
なぜなら、畏敬の念を抱く状態とは敬虔になることであり、下位の者がその創造主の前に立つという意味を含むからです。
あなたは完全に創造されているものであり、ただ完全なるものの創造主の面前においてのみ畏敬の念を経験すべきです。
したがって、奇跡は同等である者同士の間で愛のしるしとなります。
畏敬の念は平等ではないという意味を含み、同等の者同士は、お互いに畏敬の念を抱くべきではありません。
したがって、それは私に対しては相応しくない反応です。
兄が尊重されるに値するのはより深い経験があるからであり、素直に聞き入れるよう求めるのは、よりすぐれた叡智をもっているからです。
また、兄弟であるから愛されるに値し、もし、献身的な深い愛で愛されているならそれを受けるに値します。
ただ私が深く愛しているからこそ、あなたからも深く愛されるに値するのです。
私の持ち合わせるものであなたが手に入れられないものは何もありません
神から授からないものは何一つ持ってはいません。
今のところ、あなたと私との違いは、私は他には何も持っていないということです。
私が置かれた状態は、あなたにとってはただ一つの可能性でしょう。
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「私に由らずには、誰一人、父の御元にはいけない」と聖書にありますが、それは私があなたから少しも離れておらず、どのようにも違ってはいないことを意味します。
ただし、時間においては違っており、時間というものは実際には存在しません。
この言い方は、横軸よりもむしろ縦軸を使って言う方がより理解し易いでしょう。
あなたは私の下にいて、私は神の下にいるということです。
「昇天」の過程において、私はあなたより高いところにいます。
なぜなら、私がいなければ神と人との間の隔たりがあまりにも大きくなってしまい、あなたには乗り越えられなくなるからです。
私が一方ではあなたの兄として、その一方では神の子として、その隔たりに言わば橋を架けます。
兄弟たちを深く愛しているからこそ、私は一なる子としての身分をもつ者の担当者になったのであり、またその身分を共にするのでそれを完全なものとするために尽くすのです。
それは「私と父とは一つである」という言い方とは矛盾するように思えるかもしれません。しかし、父はより偉大な存在であると認めるのでこの言い方には二つの部分があると言っておきます。
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私が啓示を間接的に起こさせます。
というのも、私は 聖霊と親しく、兄弟たちに啓示を受ける心構えがあるかどうかについても深く感じとれるからです。
したがって、自分たちで引き下ろせる以上にもっともたらすことができます。
聖霊とは高い次元から低い次元への意志の疎通を取りなしますが、それを神からあなたへの直通経路を啓示のために開いておきます。
啓示は恩恵をお互いに与え合うものではありません。
それは、神からあなたへと赴くものであり、あなたから神へ赴くということはありません。
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奇跡というものは、時間の必要性を最も少なくします。
経度や経線のような、言わば横の広がりにおいては、一なる子としての身分に属する者たちは平等であると認めようとすると、それにはほとんど限りがない程の時間が必要になりそうだとさえ思えます。
しかしながら、奇跡は必然的に横に知覚することから縦に知覚することへと突然、移行します。
こうしたことが時間の差というものをもたらしますが、それは与え手と受け手の両者が、こういうことがなかったとしたら、そこに留まっていただろうと言える時点と、この為にさらに進んだ時点に現れることになります。
その時間の差を言うのです。
こうして、奇跡は時間を完全になくすという独特の性質を持っていると言うことができ、これは奇跡が及ぶそうした時間的隔たりを不必要にするところまで完全になくすということです。
奇跡に要する時間と、その奇跡そのものが包括する時間とは、何の関係もありません。
奇跡は学んで修得するには何千年かかるかもしれないようなことの代わりともなります。
奇跡の基本となるものを認めることによって、そうした学びの代わりになり、それは与え手と受け手は完全に対等であると再認識するということであって、これに奇跡は基づいています。
奇跡は時間を壊すことによってそれを縮め、そうすることでその中に含まれている時間の差を取り除きます。
しかし、奇跡はこれをより大きな時間的繋がりの中で成すのです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第1章「奇跡の意味」目次