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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編18章9 2つの世界 本文
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あなたは闇を光りへもたらし、罪責感を神聖な状態へもたらすようにと言われてきました。
それに、誤りはその根源で訂正しなければならないとも言われています。
したがって、 聖霊が必要としているのは、あなた自身のちっぽけな部分、分裂して離れているようにみえる小さな思いそのものです。
残りは全部神のもとにあり、導かれる必要はありません。
しかし、このとっぴで妄想的な思いには助けが要るでしょう。
それが、我こそ神の子だと妄想し、完全かつ全能で、狂気で専制的な支配をし、服従と隷属に追いやるために神から離すことにした王国の単独支配者だ、と思い込んでいるのですから。
これが、あなたが天国から盗んだと思っている小さな部分です。
その部分を天国に戻しなさい。
天国はそれを失ってはいませんが、あなたが天国を忘れていることは確かです。
聖霊にその部分を衰えた王国から取り除いてもらいなさい。
あなたが自分で離したその王国は暗闇に取り囲まれ、攻撃することで守りをかため、憎しみで補強されています。
そうした防御用の囲いの内には、まだちっぽけな神の子の一部があり、それは完全かつ神聖で、落ち着いていて、あなたがそんな王国を取り囲んでいると思っているものにも気づいてはいないのです。
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あなたは分離していてはなりません。
その国を確実に取り囲んでいる存在は、あなたが少し闇を差し出せば、それを永遠なる光りに戻して、あなたが一つになるよう仕向けているからです。
どうしてこんなことができるのでしょうか。
この小さな王国が本当は何なのかということに基づけば、そうするのは非常に簡単です。
不毛の砂地や暗闇や生命力を失った状態は、単に 身体の目で見ていることにすぎません。
それが見せるその荒涼とした光景は歪んでいて、それが、自分の意識を制限するためにそんな国を作った者に伝える伝言は、ほんの少しだし限られているうえ、あまりにも断片化されているので意味がなくなっています。
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正気を失った状態によってつくられた 身体の世界からは、そんな世界を作った心に、正気とはいえない伝言が戻ってくるように思えます。
そして、こうした伝言はこの世界のために証言し、これこそ本物だと宣言します。
それというのも、あなたが、こんな伝言を持ち帰るようにと、そのための使者を送り出したからです。
そんな伝言があなたに伝えることは、どれもみなまったく表面上のことだけです。
その下にあることに触れたのは一つもありません。
というのも、それについて言えるのは 身体ではないからです。
身体の目はそれを知覚しないし、他の感覚器官はまったく気づかないままだし、舌はあってもその伝言を伝えることはできません。
しかし、神はあなたをそこへ連れていってくれます。
ただしこれは、もしあなたが恐怖で胸が裂けそうなときにも、 聖霊は自分を見捨てて置き去りにするようなことはないと信用して、その 聖霊にしたがう気持ちがありさえすればです。
あなたに怖い思いをさせるのは 聖霊の目的ではないので、それはあなたの目的にすぎません。
あなたは恐怖との戦いの場の外側で 聖霊を見捨てたいような強い思いに駆られていますが、 聖霊はあなたを、無事にそこを通り抜けさせ、はるか遠くまで導いてくれるでしょう。
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恐れの渦巻く範囲は 身体に見える段階のすぐ下にあり、そこはこの世界が成り立つための全ての土台になっているようです。
ここに、すべての錯覚やすべてのねじれた思考やすべての正気を逸した攻撃があるし、激怒したり復讐したり裏切ったりすることがみられるますが、こうしたことは罪責感をあるべきところに保つために生じたので、その罪責感からはこうした世界が起こり、それを隠せたのです。
その罪責感の影は表面に浮き上がり、それはその最も外面的な現われを暗闇にとどめ、絶望感や寂しさをもたらし喜びのないところにしておくには十分です。
しかし、罪責感の激しさはその重苦しいおおいで包まれ、それを隠しておくためにつくられたものからは引き離してあります。 身体もこれを見ることができません。
身体は罪責感を護るためにそれから生じたのだし、護れるかどうかはそれを見えなくしておけるかどうかにかかっているのですから。
身体の目は決してそれを見ることはありません。だが、それが命令することは目にするでしょう。
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身体はいわば罪責感の使者であり、あなたが罪責感は本物だと信じるかぎり、それが指図する通り行動します。
なぜなら、罪責感は本当にあるというのは錯覚で、それが罪責感を重苦しくてはっきりせず、不可解なものにし、 自我の思考体系の真の土台にしてしまうからです。
罪責感が薄っぺらで透けて見えるということは、後ろから光りをあてて見るまで明らかではありません。
こうして、光をまえにしてはそれが今にも破けそうなおおいだということがわかります。
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この重そうな障壁、この岩のように見える人造の床は、まるで、水平線上に平らに盛り上がった薄暗い雲が、日ざしをさえぎって頑丈な壁のように見えているようなものです。
それが突き通せないように見えるのはまったくの錯覚です。
それはそんな雲より高い山頂にはすぐに譲歩するし、それより上まで登って太陽をみようとする人を引き留める力などまったくありません。
それにはボタンが落ちるのを止めるほどの力もなければ、羽根を支えるに足る力さえありません。
何一つ上におくことはできません。土台だと錯覚しているだけですから。それに触ろうとでもすれば見えなくなるし、つかもうとしても手には何も握ってはいないのです。
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しかし、この雲の堤のなかでは、全世界が起こるのを見るのは容易です。
見渡す限りつづく山脈や湖や都会が、みな想像のなかで起こるし、その空想のなかから自分が認知した使者が戻ってきて、あなたが見ているものは確かにそこにあると安心させてくれます。
立ち止まったり動き回ったりしている人影、本当に活動しているような動き、それに色々な素晴らしい姿かたちをしたものが表れては異様なものに変わっていきます。
あなたが子供のするような仮想あそびをし続けるかぎり、人影は行ったり来たりします。
だが、あなたがいかに長いあいだそんな遊びをしようとも、どれほど想像力を働かせようとも、雲の下の世界と混同することはなく、本物にしようとしているわけでもありません。
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暗雲のような罪責感というものもそれと同じようなものではないでしょうか。
突き通せないものではないし、実質的なものでもないのです。そんな暗雲を通り抜けようとして自分自身傷だらけになることもありません。
あなたが御案内役に導かれてそれを通りすぎるにつれ、本質的に中身がないものだということを教えてもらうがいいでしょう。
その下には光の世界があり、そこに影をおとすことにはならないのですから。暗雲の影はそれを越えた世界、光からかなり遠いところにはあります。
だがそこから光までその影がおちることはありえません。
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この光の世界、この円状の輝きが 実相の世界であり、そこで罪責感は 赦しを経験することになります。
ここでは、まわりの世界は罪責感の影を落とさずに見直されます。
あなたはここでみんなを 赦しているので、あなたも赦されています。
心新たに見た世界では、すべてのものがことごとく潔白さで明るく輝き、許しの水で洗われ、自分で押しつけた邪悪な思いはどれもみな洗い流されています。
神の子にたいする攻撃などここにはなく、あなたは歓迎されます。
あなたの潔白さは、あなたを包んで護ろうと待ちかまえており、内面へむかう旅路の最終段階への用意を整えさせます。
黒ずんだ重い上着のような罪責感は、ここでわきに置き、そっと純粋さと愛に置き換えられるのです。
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しかし、 赦しさえも究極のゴールではありません。
赦しは気持ちを和らげはするが、創造することはありません。
それはたしかに癒しの源ではあるが、愛の使者であってその御源ではありません。
ここまであなたは導かれたので、神御自ら、最後の一歩を邪魔されずに取ることができます。
ここには愛を妨げるものはなにもないし、それをあるがままにさせておくのでしすから。
この神聖な 赦しの場をこえて、さらに深く内面にむかう一歩があり、この一歩をあなたが自分で取ることはできないとはいえ、それがあなたをまったく違う何かへと運んでくれます。
ここに光の御源があり、そこでは何も知覚されず、赦されることもなければ変化させられることもありまさえん。ただ分ってもらえるだけです。
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この奇跡のコースの教えは叡智へと導いてくれるが、叡智そのものはやはり我々の学習課程の範囲を越えています。
それに、永遠に言葉を越えたところにあるに違いないことについて、我々が話そうとする必要もありません。
覚えておくべきことは一つ、だれであれ 実相の世界に達する者は、学習できるのはそこまでとしても、それを越えたところへは違う方法でいける、ということです。
学習が終わるところで神が始まるといえます。
なぜなら、始めるところで完全であり、終わるということはない神を前にして、学習することは終わりになるからです。
達成できないことをいつまで考えても役には立ちません。
習うことは多すぎるほどあります。叡智への準備を整えるということをまだ達成しなければならないのです。
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愛は学ぶものではありません。
その意義は愛そのもののなかにあります。
そして学習は愛でないものをすべて見分けたときに終わります。
そんなものが妨げになっていて、それを取り消す必要があります。
愛は学ぶものではないというわけは、あなたがそれを分っていなかった時など今まで絶対にないからです。
学習することはあなたの創造主の御前では役に立ちません。
それというのも、創造主とあなたがお互いに承認しあっているすがたは学習することを全部はるかに超越しており、あなたが習ったことはどれもみな意味がないので、愛の叡智とその唯一の意義によって、永遠に取り替えられているからです。
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あなたとあなたのきょうだいとの関係は、影の世界から引き抜かれていて、その神聖とはいいかねる目的は罪責感という障壁を無事に通り抜けさせてもらい、 赦しで洗い流され、光の世界に輝きながらしっかりと根づいています。
そこから、それはあなたも同じ道をたどって暗闇より高いところへ引き上げてもらい、天国の扉の前にそっと置いてもらうように、とあなたに呼びかけています。
聖なる瞬間においてあなたときょうだいは一つに結ばれたわけだですが、それはいわば愛を伝えるための一瞬にすぎず、 赦しを越えたところから、あなたにその向こうにあるすべてのものを思い出させるために遣わされました。
とはいえ、 赦しを通してこそ、それを思い出せるようになるのです。
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そして聖なる 赦しの場で、あなたに神の記憶がよみがえると、他のことは何一つ思い出さなくなり、思い出は学習することと同じく役に立たなくなるわけですが、それはあなたの唯一の目的は創造することになるからです。
しかし、こうしたことがあなたに分るようになるとすれば、それは知覚したことをことごとく洗い流し、清めたうえで、最終的には永遠に取り除いたときでしょう。
赦しは真実でないものだけを取り除くのであり、この世界から影のようなものを取り上げ、やさしく包んで安全かつ確実に、新しくきれいに知覚する輝かしい世界へと運んでいきます。
そこに今、あなたの目的があります。そしてその輝かしい世界で平安があなたを待ち受けているのです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第18章「過ぎ行く夢」目次