奇跡講座テキスト編18章8 小さな庭 本文
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身体を意識していることが、愛には限界があるように思わせるだけです。
身体が愛を制限することは確かであるのですから。
愛は限りあるもの、との信念が 身体の因であり、その 身体は限りなきものを制限するために作られたのです。
これを単なるたとえだとは思わないほうがいいでしょう。
身体は確かにあなたを制限するためにつくられたのであるのですから。
自分というものは 身体のなかにあると見なす者は、自分が想念だと分るでしょうか。
あなたはあらゆるものを、その外観で見分けています。
つまりその物体の外側にあるもので見分けをつけています。
あなたには神のことさえ、 身体または自分に見分けがつきそうな、なんらかの形なしには考えられないのです。
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身体というものは何も知ることはできません。
そしてあなたが自分の意識をそのごくわずかな感覚に制限するあいだは、自分を取り巻く崇高さに気づくことはないでしょう。
神が 身体に入り込むことなど不可能だし、あなたもそこで神に加わることはできません。
愛を制限すると必ず神を追い出してしまうし、あなたを神から遠ざけておくことになるようです。
身体というものは、素晴らしくて完全なる想念のほんのわずかな部分をとり囲む、小さな柵にひとしいのです。
それは天国のごく小さな区分のまわりに限りなく小さな円を描き、全体から離れて、そのなかに自分の王国があると宣言しているようなものだが、そこに神は入ることはできないのです。
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この王国内では、 自我が残酷に支配します。
そしてそれがこんな取るに足らない一片のちりを護るために、宇宙を相手に戦うようにとあなたに命令します。
このあなたの心のかけらは実に小さな部分であり、ただその全体の真価を認めるには、まずその部分をみて、これは一番小さな太陽光線と太陽そのものほどの違いだとか、大海原の海面の一番弱いさざなみのようなものだと思いつけばいいのです。
だがその驚くべき傲慢さで、このちいさな太陽光線は自らが太陽だと独り決めし、このほとんど気づかないほどのさざなみが自らを大海原だと自認します。
こんなちいさな思い、こんな極小の錯覚が自ら宇宙に対立して離れていようとするあいだ、どれほど孤独な思いをし怖がっているか考えてもみるがいいでしょう。
太陽はそんな太陽光線など食いつくしてしまう「敵」とみなされ、大海原はそんなちっぽけなさざなみを恐怖に落としいれたうえで、飲み込んでしまうものと思い込まれているのです。
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しかし太陽も大海原も、こんな奇妙で無意味な活動にはまったく気づいていません。
双方とも自らのうちなる小さな一区分から、恐れられたり憎まれたりしているとは気づかずに、ただ存続するだけです。
そうした一区分でさえ双方にちゃんと属しています。
離れては生き残れるわけがないのだから。
そしてその一区分が自らを何だと思い込もうとも、それが生存するためには、全面的に双方に依存しているという事実は少しも変わりません。
その存在はすべて今も双方のうちにて続いています。太陽がなければ太陽光線はなくなるだろうし、大海原なくしてさざなみがたつことなど考えられないことです。
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身体が住んでいる世界にいる人たちは、こうした奇妙な立場に立たされているように思えます。
それぞれの 身体は、分離した心、つながりを断たれた思いを宿らせているようだし、そんな思いは孤立していて、どうみてもそれを創造した御思いと結びついてはいません。
ちいさなかけらは一つひとつそれなりにまとまっており、いくらかは他のものに頼るが、自らの唯一なる創造主にすべてを完全に依存しているわけではありません。
とはいえそれ自体には何の意味もないので、完全なるものに何らかの意味を与えてもらう必要はあります。
それに、離れて孤立したのでは生命力などないのです。
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太陽や大海原と同じように、あなたの本来の自己は存続するし、その小さな部分が自らあなただとみなしていることを心に留めてはいません。
それがどこにあるかわからなくなっているわけではありません。
もし分離していたなら存在できないばかりか、それなしでは、完全なるものが完全とはいえなくなるでしょう。
それは残りの部分から分離しているという考えで支配される、別の王国ではないのです。
塀で囲まれているわけではないので、残りのものとひとつに結ばれるのに妨げはないし、その御創造主から引き離されたままでもありません。
この小さな側面は完全なるものと何の変わりもない、ずっとそれに続いているし、それと一つになっているのであるのですから。別べつに生きているわけではありません。
なぜならその命こそ一つである状態そのものであり、そこでそれの存在も創造されたのです。
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この小さな塀に囲まれた側面を、自分自身として受け入れたりしないようにしましょう。
太陽や大海原も、あなたの本来のすがたとはくらべものになりません。
太陽光線はただ日光のなかできらめき、さざなみは大海原の水面で踊ります。
しかし太陽と大海原にさえ、あなたに内在する力ほどのものはないのです。
あなたは自分のちいさな王国のみじめな王様、自分で見渡せるものすべてに冷酷な支配者であり、目にするのは価値のないものだというのに、そんなものを死んでも護ろうとする王様として、そこにとどまるつもりでしょうか。
こんなちっぽけな自己はあなたの王国ではありません。
その上に高く弓なりになって、愛で取り巻いているのは輝かしい完全なるものであり、それがどの部分にもすべての幸せと深い満足感を差し伸べてくれます。
あなたが別にしたと思っている小さな側面もその例外ではありません。
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愛は 身体のことはなにも知らないし、自らと同じように創造されたすべてのものに達します。
全く限度がないということが愛の意義そのものです。
その愛はあらゆる点で公平に与えるし、与えるものを完全なままで維持するためにのみ、その周囲を取り巻いています。
あなたが自分の王国のなかで持っているものはほんのわずかです。
それなら、そこにこそ入ってきてほしい、と愛に頼むべきではないでしょうか。
その不毛の地を見てみるがいいでしょう。
乾いていて肥沃な地とはいえず、しおれていて喜びがない、これがあなたの小さな王国を形成しています。
では、そこへ愛が活気と喜びをもたらしてくれることに気づいてほしいし、その愛が生まれたところ、そこへ愛はあなたを連れ戻るつもりでいることにも気づくといいでしょう。
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神の御思いはあなたの小さな王国を取り巻き、そこに入って不毛の土壌のうえで光り輝くために、あなたが造った障壁のそばで待っています。
さあ、見るといいでしょう。どこもかしこも生命力が湧き出ているでしょうか。
不毛の地は庭園となり、青々としている上にしーんと静まりかえっていて、道を見失いほこりの中をさまよう人びとに、休息の場を提供しています。
嘗ては不毛の地だったところに、その人たちのために愛が慰めの場を用意してくれました。
そこを開放するといいでしょう。
そうすればあなたが歓迎する人たちが、それぞれあなたのために天国から愛を伴ってきてくれるでしょう。
一人またひとりとこの聖地に入ってきます。
その時は一人ぽっちだったのですが、立ち去るときはそうではありません。
自分が連れてきた愛はそのままついていくし、それと同時にその愛はあなたのところにもとどまります。
そしてその恩恵をうけて、あなたの小さな庭園は広がり、それは生命力をあたえる水を渇望しながらも、疲れ果てて一人で歩み続けられなくなっている人たちみんなに達するまで、広がっていくのです。
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その人たちを捜しに行きなさい。
あなたの本来の自己を連れて来てくれるのですから。
そしてその人たちをあなたの静かな庭園に導き、そこで祝福を受けとりなさい。
そうすれば庭園には草木が生い茂り、不毛の地一面に精一杯広がっていき、孤立した小さな王国を、その中にあなたを残したままで、愛から締め出しておくようなことはありません。
すると、あなたは自分自身のことを再認識するようになるし、自分の小さな庭園が穏やかに神の国へと変えられ、その上に創造主の愛がすべて注がれているのが見えてくるでしょう。
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聖なる瞬間は、あなたが愛を招待し、自分の荒涼とした喜びのない王国に入ってきて、そこを平安に満ちた愛を歓迎する庭園に変えてもらいたい、と頼んでいるということです。
愛がそれに答えるのは当然のことです。
愛は来てくれます。
あなたは 身体をおいてきたし、その喜ばしい到来を妨げる障害物を何一つさしはさまなかったのですから。
聖なる瞬間には、愛が一人ひとりみんなに差し伸べるものだけを、あなたも頼むことになるのであり、少なくもなければ多くもありません。
すべてのものを頼めば、それが自分のものになります。そしてあなたの光り輝く本来の自己は、あなたが天国から隠しておこうとした小さな側面をまっすぐ天国へと引き上げてくれます。
愛に属するものはどの部分であれ、全体に呼びかければ、その呼びかけが無駄になることはありません。
神の子は、一人たりとも父なる神と無関係でいることはないのです。
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次のことに確信を持ちなさい。
愛があなたの特別な関係に入ってきたこと、それもあなたの弱々しい願いに答えて、十分に入り込んでいます。
あなたが愛のきたことに気づいていないとすれば、それは自分のきょうだいとの間に置いた障害をすべて手放してはいないからです。
それに、あなたときょうだいは別々に愛を歓迎することはできないでしょう。
あなたには一人で神を知ることはできません。
それは神がきょうだいと一緒にいないあなたを知らないのと同様です。
しかし一緒になら、あなたは愛を気づかずはいられないし、同様に愛があなたを知らないでいるとか、あなたのうちにある愛そのものを見分けられずにいるということはないのです。
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あなたは遠い昔からの旅路の終点にたどり着いているというのに、まだそれが済んだとは気づいていません。
まだに心身ともに疲れ果てており、不毛の地のほこりがまだあなたの目をくもらせて、見えないままにしているようです。
しかし、あなたが喜んで迎えた存在は来てくれたし、あなたを歓迎してくれるでしょう。
その存在はこのときをあなたに与えようと、首を長くして待っていました。今こそ、それを受け入れるといいでしょう。
御自分をあなたに分るようにしてくださるつもりでいらっしゃるのですから。
ただ取るに足らないほこりの壁が、いまだにあなたときょうだいのあいだに立っているにすぎないのです。
晴れやかな笑顔でその壁に軽く息を吹きかけるといいでしょう。
そうすればすぐ崩れてしまいます。
さあ、愛が二人のために用意してくれた庭園に入って行ってほしいのです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第18章「過ぎ行く夢」目次