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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章19-4-C 第三の障害- 死の魅力 本文
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あなたとあなたのきょうだいとの特別な関係の中に 聖霊が入り込むことで、その関係には、死に対する献身から互いを解放する機会が与えられます。
それがあなたに差し出され、あなたはそれを受け入れたからです。
それでもなお、あなたはこの奇妙な献身について、もう少し学ぶ必要があります。
というのは、そこには平安の流れが超えていくべき第三の障害が、含まれているからです。
自分で死を選択しないかぎり、だれひとり死ぬことはできません。
死に対する恐れのように見えるものは、実は死に対する魅力です。
罪悪もまた怖がられていて、恐ろしいものです。
しかしそれは、それに惹かれ、それを追求しようとする者たちにしか、全く支配することはできません。
それと同じことが死についてもいえます。
自我により作り出された死は、生命あるすべてのものに暗い影を投げかけます。
なぜなら、 自我は生命の「敵」だからです。
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しかし、影には殺すことなどできません。
生きているものにとっては、いったい影がなんだというのでしょう。
彼らが通り過ぎるだけで、影は消えてしまいます。
とはいえ、生きないことに心を捧げている者たちはどうでしょうか。
黒装束を身にまとった「罪人たち」、すなわち、重い足どりを引きずり重い足取りで生命から遠ざかり、 自我の哀悼の歌を合唱しながら、死の主である陰鬱な主人を讃える行列をのろのろと行進している者についてはどうでしょうか。
そのうちのだれかに優しい 赦しの手で触れてみなさい。
その人を縛っている鎖があなたの鎖と一緒にほどけて落ちていくのを見なさい。
その人が自分の葬式のために着ていた黒い外套を脱ぎ捨てるのを見なさい。
そして、その人が死を一笑にする笑い声を聞きなさい。
その人はあなたの 赦しを通して、罪が下そうとする死の判決を、抜け出すことができます。
これは傲慢さでもなんでもありません。
それこそ神の意思です。
神の意思を自分の意思として選んだ者に、何が不可能でしょうか。
あなたにとって、死が何だというのでしょう。
あなたの献身は、死に対して捧げるものでなく、死の主人に捧げるものでもありません。 聖霊の目的を 自我の目的の代わりに受け入れたとき、あなたは死を放棄し、それを生命と交換したのです。
私たちには、想念はその源を離れることはないと分かっています。
そして、死とは私たちが 自我と呼んでいる想念から生じた結果であり、それと同様に確かなことは、生命も神の想念から生じた結果だということです。
19-Ⅳ-C ⅰ朽ちることなき 身体〔奇跡のコース テキスト編〕→
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念