奇跡講座テキスト編26章26-7 癒しの法則

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第26章「過渡期」26-7本文

 

第26章26-7 癒しの法則

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これは奇跡に関するコースです。

したがって、このコースの目的が達成されるためには、まず癒しの法則が理解されなければなりません。

これまで学んできた原則について復習して、癒しが可能となるために生じなければならない事について、要約する形で整理してみる事にしましょう。

ひとたび可能になりさえすれば、それは必ず生じる事になるからです。

 

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全ての病気は分離から生じます。

分離が否定された時、病気は消え去ります。

病気をもたらした想念が癒され、正気と入れ替わるやいなや、それは消え去るからです。

理性の光を注意深く避けて温存されるようにと、自覚から隠されたままにされている関係の中では、病気と罪は結果とその原因と見なされています。

 

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罪悪は処罰を求め、その要請は聞き入られます。

ただしそれは、罪の上に築かれた影と幻想の世界での事であり、真理においての事ではありません。

知覚とは願望を満たすことなので、神の子は自分で見たいと思ったものを知覚したのです。

不変の叡智に取って代わるために作り出された知覚は、変化するものです。

しかし、真理は不変のものです。

それは知覚される事は出来ず、ただ知られる事が出来るだけです。

知覚されるものは様々な形を取りますが、そのどれにも意味はありません。

真理のもとに運ばれたなら、その無意味さは極めて明らかです。

ただ真理から離れたところに置かれるなら、それには意味があり、実在するかに見えます。

 

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知覚の法則は真理とは正反対であり、叡智において真実である事は、叡智から離れているどんなものについても真実ではありません。

しかし、は病んだ世界に答えを与えました。

そしてその答えは、そのあらゆる形に適用できます。

の答えは永遠ですが、それが必要とされている場である時間の中でも働きます。

しかし、それはからのものなので、時間の法則はその働きに何らかの影響を及ぼすような事はありません。

それはこの世界の中にありますが、世界の一部ではありません。

なぜなら、それは実在するものであり、実相の全てが在るところに存在するからです。

想念はその源から離れることはなく、ただその結果は想念から離れているように見えるだけです。

想念は心に属するものです。

外に投影されて心の外にあるように見えるものは、決して外側にあるのではなく、内側にあるものの結果であり、その源を離れてはいません。

 

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の答えは、罪への信念があるはずの場所に存在しています。

ただそこにおいてのみ、結果は完全に取り消され、原因のないものになる事が可能だからです。

知覚の法則は逆転されなければなりません。

なぜなら、それはまさしく真理の法則が逆転されたものだからです。

真理の法則は永遠の真実であって、それを逆転させる事は出来ません。

それでも、それが逆転しているかのように見えることはあります。

そして、これは逆転という幻想が存在している場所で訂正されなければなりません。

 

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一つの幻想が他の幻想に比べて真理に従わせ難いという事はあり得ません。

しかし、いくつかのものには他のものより大きな価値が与えられていて、それを癒しと助けのために真理に快く差し出され難い、という事はあり得ます。

いかなる幻想も、その中に真理を含んではいません。

それでも、ある幻想は他の幻想よりも真実であるように見えます。

しかし、これは明らかに全く何の意味もなさない事です。

幻想に順位が示す事が出来るのは好みの程度だけであり、実在性ではありません。

好みの程度が真理とどんな関連があるというのでしょう。

幻想は幻想であり、虚偽です。

あなたの好みが幻想に実在性を与える事はありません。

幻想はただの一つも、いかなる形においても真実ではなく、がその全てに対して与えた答えに、全て同じように容易に従うはずです。

神の意志とは、一なるものです。

そして、神の意志に対抗するかのように見える願望は、真理の中にいかなる根拠も持ちません。

 

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罪は誤りではありません。

なぜなら、罪は訂正できる範囲をこえていて、あり得ないものだからです。

しかも、それが実在するという信念が、いくつかの誤りを、永遠に癒しなど期待できないもののように見せ、永遠に続く地獄の根拠であるかのように思わせてきました。

もし、その通りだとすれば、天国はそれ自体と同じく実在性がありつつそれ自体とは正反対のものと対立している事になります。

そうだとすれば、神の意志は二つに分裂している事になり、全ての被造物は二つの相対立する勢力の法則に従属させられていて、いつかはやがて、が我慢できなくなって世界を二つに引き裂き、神ご自身に攻撃を加えるに至るまでその状態が続くという事になります。

かくして、正気を失い、罪はからの実在性を取り上げ、神の愛はついに復讐の足元に屈服させたと宣言します。

このような狂った事態を守るためには、狂った防衛が為される事は予測できるとはいえ、それによってその事態が真実に違いないと立証される事はありません。

 

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意味もないところに意味を与えるものは何もありません。

そして、真理は自らを真実にするために防衛を必要としていません。

幻想には証人もいなければ、結果もありません。

幻想に目を向ける者は、ただ欺かれるだけです。

赦しがここでの唯一の機能であり、 赦しは罪が支配していると思われていた神の子の全ての側面にこの世界が禁じている喜びをもたらすために働きます。

たぶんあなたには、罪悪の霧の中から現れ出るあらゆる信念や死を終わらせる事において、 赦しが担う役割が見えてないのでしょう。

罪とは、あなたが兄弟と自分自身の間に押しつける信念です。

罪は、あなたを時間や場所へと限定して、あなたに一つの小さな空間を与え、兄弟にもう一つの小さな空間を与えます。

この切り離しは、あなたの知覚においては、明らかに分離した別々のものである 身体によって 身体に象徴されています。

しかし、この象徴が表しているのは、分離して別個でありたいというあなたの願望を現しているに過ぎません。

 

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赦し、兄弟とあなた自身との間に立ちはだかるものを取り除きます。

それは、兄弟と離れているのではなく繋がり合いたいというあなたの願いです。

私たちがそれを「願い」と呼ぶのは、それは依然として他の選択を思い描いていて、また選択の世界を越えたところに達してはいないからです。

とはいえ、この願いは天国の状態と軌を一にしていて、神の意志とは対立してはいません。

それはあなたの受け継いでいるもの全部をあなたに与えるには遥かに及びませんが、あなたが自分は誰でありどこにいるのかという認識と、自らが存在している場である天国との間に、あなた自身が挿入した障害を取り除くことはします。

事実は変わっていません。

しかし、否定される前には知られていた事実であっても、否定しされ知られざるものになる事は可能です。

 

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完璧で完全な 救済が求めるのは、真実が真実である事を望むほんの少しの願望であり、存在しないものを快く見過ごそうとするささやかな意欲であり、死や惨めさが支配しているかのように見えるこの世界より天国を好む気持ちを物語る小さなため息だけです。

それらに喜んで応えて、被造物があなたの内に浮かび上がり、あなたに見える世界が完全で完璧な天国に取って代わります。

赦しとは、真実が真実である事を望む気持ち以外の何でしょう。

いったいどんなものが癒されないままにされ、全てのものをそれ自体の中に保つ統一体から切り取られたままにされるでしょうか。

罪は存在しません。

そして、神の子が自らの願いと神の意志とは一つである事を知覚する瞬間には、あらゆる奇跡が可能です。

 

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神の意志とは何でしょうか。

は、我が子が一切を有する事を意図しています。

そして、神の子を一切として創造した時、この事を保証しました。

もし、あなたの持っているものが、あなたであるものと同じだとすれば、何かが失われる事は不可能です。

これが創造をあなたの機能とならしめた奇跡であり、あなたはその機能をと分かち合っています。

それはから離れては理解されない事なので、この世界においては何の意味も持ちません。

ここでは、神の子が求める事は、多すぎるどころか、あまりに少ないのです。

神の子は自分自身の卑小な宝物を見つけるために、自分自身が一切と一つであるという自己認識を犠牲にしようとします。

そしてこれは、神の子が孤立感や喪失感や孤独感を抱かずに為す事は出来ません。

これが、神の子が探し求めてきた宝物です。

そして、神の子はそれに対して恐れを抱く事しかできません。

恐れが宝物でしょうか。

不確かさがあなたの望むものという事があるでしょうか。

それとも、それはあなたの意志や自分と、あなたの本性についての間違いでしょうか。

 

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誤りを守るのではなく訂正できるよう、何が誤りなのかよく考えてみましょう。

罪とは、罪への信念が生じた場である心の外側に、攻撃を投影する事が出来るという信念です。

ここに、想念はその源を離れる事が出来るという考えを、真実にして意味あるものにしている強固な確信があります。

そして、このような誤りから罪と犠牲の世界が生じます。

この世界とは、攻撃を大切に保持しながらも、自分の無垢性を証明しようとする試みです。

その失敗は、あなたが理由も分らずに罪悪感を未だに感じている事にあります。

結果が源から分離しているものと見みなされ、あなたにはそれを抑制する事も防止する事も出来ないかのように見えます。

こうして隔離されているものは、決して繋がるという事は出来なくなります。

 

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原因と結果は一つのものであり、分離したものではありません。

は、これまで常に真実であり続けてきた事をあなたが学ぶ事を意志しています。

すなわち、ご自身の一部としてあなたを創造したという事、そして想念はその源を離れることはないので、このことは今でも真実であるという事を学ぶ事です。

これが創造の法則です。

つまり、心が抱く一つひとつの想念は、心にただその豊かさを増すことはあっても、決してそれを取り去ることはないという事です。

これは真に意志される事についても当てはまるだけでなく、何気なく願う事についても同じように当てはまる事です。

なぜなら、心は欺かれる事を願うことは出来ますが、自らのをその本性と違うものにする事は出来ないからです。

そして、想念がその源から離れられると信じる事は、真実になってくれるように幻想を招き入れる事であり、それは成功する事はありません。

なぜなら、神の子を欺こうという努力に、成功はあり得ないからです。

 

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奇跡が可能となるのは、原因とその結果が離されたままにされず一つのところに運ばれる時です。

原因を除いたまま結果を癒そうとするなら、単に結果を別の形に変える事が出来るだけです。

これは解放ではありません。

神の子は、完全な救いと罪悪感からの脱出以下のものでは決して満足できません。

なぜなら、それ以下であれば、その人はまだ自分が何らかの犠牲を払う事を要求し、そうする事によって一切がその人のものであり、いかなる種類の損失もその人を限定していないという事を否定するからです。

ほんの小さな犠牲であっても、その結果においては、犠牲という考え方の全体と同じです。

もし、どんな形であれ損失が可能だとすれば、神の子は不完全なものにされ、その人自身とは違ったものにされています。

また、その人が自分自身を知る事はなく、自らの意志も認識する事はないでしょう。

その人はと自分自身を否認する事を誓い、憎しみの中で両者を敵にしたのです。

 

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幻想というものは、もともとそれらが仕えるべく意図されていた目的に仕えます。

そして、そうした目的から、幻想が持っているかのように見える全ての意味を引き出します。

は、どんな形をしたものであれ作り出された全ての幻想に対して、一つの奇跡を正当化する事になるもう一つの目的を与えました。

一つひとつの奇跡の中に、全ての癒しがあります。

というのも、はそうした幻想を全て一つのものとして、それに答えを与えたからです。

そして、にとって一つであるものは、同じであるに違いありません。

もし、あなたが、同じであるものを違うと信じているのなら、あなたは自分を騙しているのです。

が一つと呼ぶものは永遠に一つであり、分離していません。

神の王国は一つに結ばれています。

それはそのようなものとして創造されたのであり、これからもそのようなものとしてあり続けます。

 

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奇跡はあなたのいにしえのを呼んでいるだけであり、あなたの記憶の中には真理があるので、あなたはそのを認識するでしょう。

そして、あなたの兄弟は、自分の解放とあなたの解放を求めて、このに呼びかけます。

天国は神の子の上に輝いています。

兄弟を否定してはなりません。

それは、あなた自身が解放されるためです。

神の子は、再び死ぬという選択をしなくなるまで、刻一刻、再生します。

傷つけようという願望を持つたびに、その人はがその人に意志するものの代わりに、死を選択しています。

しかし、はその人が生きる事を意志するので、あらゆる瞬間がその人に生命を与えます。

 

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十字架刑の中に救いが置かれています。

なぜなら、癒しは苦痛も苦しみもないところには必要ないからです。

どのような種類の攻撃に対しても、癒しが答えです。

そのようにして、攻撃からはその結果が取り下げられ、憎しみは愛の名において答えが与えられます。

神の子を十字架刑や地獄や死から救うように定められているあなたに、全ての栄光が永遠に与えられています。

なぜなら、が意志したがゆえに、あなたには神の子を救う力があるからです。

そしてひとつのものとして差し出されて受け取られるように、あなたの手の中に 救済の全てが置かれています。

 

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があなたに与えた力を、が望む通りに使う事は自然なことです。

に創造されたままに存在することは傲慢ではなく、また、我が子の全ての間違いに答えて神の子を解放するために与えたものを活用する事も傲慢ではありません。

しかし、から与えられた力を放棄して、が意志するものの代わりに卑小で無意味な願望を選択する事は、傲慢です。

からあなたへの贈り物は無限です。

それが答える事の出来ない状況はなく、その恵み深い光の中で解決されない問題など一つもありません。

 

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平安の中に留まりなさい。

そこが、があなたに居て欲しいと願っている場所です。

そして、あなた自身が、あなたの兄弟が平安を見いだせる手段となりなさい。

その平安の中で、あなたの願いは成就します。

私達は一体となって、罪と死の世界に祝福をもたらしましょう。

私たち一人ひとりを救えるものは、私たち全員を救う事が出来るからです。

神の子たちの間にはいかなる違いもありません。

特別性が否定している一体性が、神の子たちの全てを救うものです。

なぜなら、一つであるものに特別性はあり得ないからです。

そして、全てのものが一人ひとりに属しています。

いかなる願望も、ある兄弟とその人自身の願望の間を遮る事はありません。

一人から取り上げるという事は全ての人から奪うという事です。

一方、一人でも祝福する事は、全ての人を一なるものとして祝福する事です。

 

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あなたのいにしえのは全ての人に属していて、同様に全ての人のはあなたに属しています。

兄弟のを呼びなさい。

そうすれば、が答えるでしょう。

その時あなたは、を呼んでいるからです。

ご自身を呼ぶ全ての人に既に答えているが、答える事を拒否出来るでしょうか。

奇跡は全く何の変化ももたらすことは出来ません。

しかし奇跡は、常に真実であり続けたものを、それを知らない人たちに認識させる事は出来ます。

そして、真理を真理のままにさせるに過ぎないこの小さな真理の贈り物によって、神の子神の子である事が出来るようになり、全ての被造物が自由になり、一なるものとして神の御名を呼べるようになります。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第26章「過渡期」目次

26-1    一体性の「犠牲」

26-2    多くの形態、一つの訂正

26-3    境界地帯

26-4    罪が消え去った場所

26-5    小さな妨げ

26-6    定められた友

26-7     癒しの法則

26-8     救済の即時性

26-9     彼らが訪れたので

26-10      不正義の終わり

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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