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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第3章 「無垢なる知覚」より3-1本文
第3章 3-2 真の知覚としての奇跡
ACIM-Text- chapter3-2-1
私は既に、この奇跡のコースで言及する基本的な概念は度合の問題ではないと、言っておきました。
ある根本的概念を、相反するものがあるとして見たのでは理解することはできません。
光と闇、又はあらゆるものと実在しないものとが両立できるとして、心に描こうとすることは不可能です。
それは全部が真実であるか、それとも全部が間違っているか、そのどちらかになります。
いずれかに誠心誠意従おうと堅く心を決めるまでは、気まぐれなものの考え方しかしていないと悟ることが絶対必要です。
ですが、闇または実在しないものに対して、誠心誠意堅い決断で従うことは不可能なことです。
未だかつて、誰一人、ほんの少しの光も経験したことがなく、ほんの少しの何かも経験したことのない者がいた試しはありません。
従って、誰も真理を全面的に否定することはできません。
例えそれができると思ったとしてもです。
ACIM-Text- chapter3-2-2
無垢であるとは部分的に言えることではありません。
全面的にそうなるまでは実在しているとは言えません。
部分的に無垢である者たちは、かなり愚かなことをすることがあります。
その人たちの無垢である罪の無さは、それを普遍的に当てはめて見るようになるまでは、叡智とはなっていません。
無垢な知覚、あるいは真の知覚とは決して誤って知覚することなく、いつも正しく見ることを意味します。
もっと簡単にいえば、決して存在しないものは見ないで、絶えず存在するものを見るという意味です。
ACIM-Text- chapter3-2-3
もし、あなたが誰かがしようとすることを信頼できないと思うとすれば、それは「その人は正しい心を持ち合わせてはいない」とあなたが信じているという証拠です。
これは奇跡を土台として判断することとはほど遠いのです。
その上、それは奇跡の持つ力を否定するという破滅的な効力があります。
奇跡はあらゆるものをあるがままに知覚します。
もし、真理以外には何も存在しないのであれば、心の正しい状態で見たならば完全であるものしか見ることはできません。
私が述べておいたように、ただ神が創造するもの、又はあなたが神と同じような意思で創造するものだけが真実として存在します。
それならば、無垢な者が見ることができるのはこれだけであるということです。
その人たちは歪んだ知覚によって苦しむことありません。
ACIM-Text- chapter3-2-4
あなたが神の意思に対して恐れを抱いているのは、神が自分に似せて創造したあなたの心を、誤って創造することに使ってしまったからです。
心は、自由ではないと信じ込んでしまったときにのみ、それは誤って創造することがあります。
閉じ込められた心は、それ自体に囚われているか、引き止められているので自由ではありません。
したがって、それは制限されており、意思そのものには自らの存在を明らかに示す自由がありません。
一つになるということは、一なる心または一なる意思となることです。
一なる子の意志と父との意思が一つになり、双方が完全に一致した姿こそ天国なのです。
ACIM-Text- chapter3-2-5
父の御手に自分の霊(Spirit)を委ねる神の子に勝るものは何もありません。
委ねることによって、心はその眠りから目覚め、創造主を思い出します。
分離しているという思いは全て消滅します。
神の子は聖三位一体の一部ですが、聖三位一体そのものは一なるものです。
聖三位一体、その次元においては何の混乱もありません。
それに属するものは一なる心、一なる意思であるからです。
この唯一の目的が完全に統合された姿を創造し、また神の平安を確立するのです。
けれども、こうした心眼は、ただ本当に無垢な者だけが知覚できます。
無垢な者たちの胸の中は純粋だからこそ、その人たちは真に知覚することに反して自らを守ろうとするのではなく、そのように知覚することを守ろうとするのです。
その人たちは贖罪のレッスンを理解しているので、攻撃したいと望むことはありません。
したがって、正しく見るようになります。
これこそ、次に引用する文で聖書が言わんとすることの意味です。
「主が現れる時、私たちは彼に似るものとなることを知っています。なぜなら、その時私たちは彼をありのままの姿で見るからです」
ACIM-Text- chapter3-2-6
歪みを正す方法は、そのような歪んだものに対する確信を取り下げて、その代わりに真実であるものだけを確信しきるようにすることです。
あなたは、真実ではないものを真実だとすることは出来ません。
もし、あなたが知覚するあらゆるものの中に、真実であるものを快く受け入れるつもりなら、それを自分にとって真実とすることになります。
真実であるものは全ての間違いに打ち克ちます。
しかし、間違いと空しさの内に生きる者たちは、決して永続的な慰めを見い出すことはできません。
もし、あなたが本当に知覚するならば、自分自身と他の者たちに対して誤って知覚していることを同時に取り消すことになります。
あなたは他の者たちを本来の姿のままに見るからこそ、これを真実として受け入れると申し出るのであり、それによりその人たちも自分自身の真実を受け入ることができます。