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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第3章 「無垢なる知覚」より3-3本文
第3章3-3 知覚対叡智
ACIM-Text- chapter3-3-1
私たちは、今まで知覚について強調してきましたが、叡智について述べたことはまだほとんどありません。
その理由は、あなたが知ることができるようになるには、まずその前に知覚についての考えや疑念を正さなければならないからです。
知るということは、確信があるということです。
疑念があるなら、あなたは知っていないという意味になります。
叡智は力ですが、それは叡智が確かなものだからであり、確かなものは強いのです。
知覚とは一時的なものです。
知覚は、空間と時間を信じる信念の特性を含むので、それは恐れにも愛にも影響されます。
誤った知覚は、恐れを生じさせ、真の知覚は愛を育みますが、知覚は様々に変化するので、そのどちらも確実性を伴うものではありません。
したがって、それは叡智ではありません。
真の知覚は、叡智への基礎とはなりますが、知るということは真実を肯定することであり、「知覚を全て越えたもの」です。
ACIM-Text- chapter3-3-2
あなたの困難は、どれも全てあなたには自分自身も兄弟も神も認識していない、という事実に由来します。
認識するとは、「もう一度知る」という意味であり、あなたが以前にそれを知っていたということを示唆しています。
あなたには、色々な見方で見ることができますが、それは知覚が必然的に解釈をするからです。
そして、これは知覚とは完全なものでもなければ、首尾一貫したものでもないということを意味します。
奇跡とは、一つの知覚の方法であって、叡智ではありません。
それは、疑問に対する正しい答えではありますが、知っているときには質問することはしないでしょう。
あらゆる幻想に疑問を持ち始めることが、そのような幻想を取り消すための最初の第一歩です。
奇跡という正しい答えがその訂正を行います。
知覚は、変化するものであるので、それが時間に依存することは明らかです。
機会ある毎に、あなたがどのように知覚するかによって何を行うかが決まります。
そして、行動は必ず時間の中で起こります。
叡智は、時間を超越しています。
確かなものに疑問の余地は有り得ないからです。
質問することをやめた時、あなたは知るのです。
ACIM-Text- chapter3-3-3
疑問を抱く心は、時間の中に自身を知覚するので、未来に答を望みます。
閉ざされた心というものは、未来も現在と同じものになると信じています。
こうすれば、表面的には安定した状態を確立させられます。
しかし、それは未来は現在よりも悪くなるのではないかという心の底で恐れていることを和らげようとする試みです。
こうした恐れが、疑問を持つ気持ちを全て抑えてしまうのです。
ACIM-Text- chapter3-3-4
真の心眼とは、霊的な視覚の自然な知覚ですが、それはまだ訂正であって事実ではありません。
霊(Spirit)としての視覚は象徴的なものです。
したがって、知るための手立てではありません。
しかし、この霊的な視覚は正しく知覚するための手段であって、それを奇跡に適した領域に誘導します。
「心眼でみる神」とは、啓示ではなく、奇跡です。
そもそも、知覚を必要とするという事実が、そうした経験を叡智の領分に属さないものとしています。
それ故に、心眼によるものがいかに神聖であろうと、長続きしません。
ACIM-Text- chapter3-3-5
聖書には、自分自身を知るように、すなわち、確信を持つようにと書かれています。
確実であるものは必ず神に属します。
あなたが誰かを愛する時、その人をあるがままに知覚したのであり、これによって、あなたはその人を知ることが出来るようになります。
その人をまず本来の姿そのままに知覚するまで、あなたはその人を知ることは出来ません。
その人について質問し続けているうちは、あなたは明らかに神を知らないということを言っていることになります。
確実であるものは行動を必要としません。
あなたが自分は叡智に基づいて行動していると言うとき、本当は叡智と知覚を混同しているのです。
叡智が提供する力は、創造的に考えるための強さであって、正しく行うための強さを提供するのではありません。
知覚と奇跡と行いは、深い関連があります。
叡智は、啓示の結果であり、ただ想念のみを誘発します。
知覚することは、その最も霊化された形でさえ、 身体が関連しています。
叡智は、内なる祭壇から来るのであり、それは確実なものであるが故に時間を超越しています。
真理を知覚する事と、真理を知る事とは同じではありません。
ACIM-Text- chapter3-3-6
神が、神の子たちの内に確立した祭壇に対して直に意思の疎通をすることが可能となるためには、その前に正しい知覚が必要です。
その祭壇で、神ご自身の確実性を伝えることができ、神の叡智は確かに平安をもたらします。
神は、神の子たちにとって見知らぬ存在ではなく、神の子たちは互いに見知らぬ者ではありません。
叡智は、知覚と時間のどちらよりも先にあったものであり、究極的にはその二つに取って変わるでしょう。
これが、「アルファでありオメガである、初めであり終りである」、「アブラハムが存在する以前に、私は存在している」ということの本当の意味です。
知覚は、安定させることができ、安定させなければならないものですが、叡智は既に安定しています。
「神を恐れ、神の戒律に従うように」とは「神を知り、神の確実性を受け入れるように」となります。
ACIM-Text- chapter3-3-7
もし、あなたが他の人の誤りを攻撃するなら、自分自身を傷つけることになります。
自分の兄弟を攻撃する時、あなたはその人を知ることはできません。
攻撃はいつも見知らぬ人に対して加えられます。
あなたは、その人を誤って知覚することによって、その人を見知らぬ者としています。
それ故に、その人を知ることができません。
その人を見知らぬ者としてしまったからこそ、あなたはその人に恐れを抱いているのです。
その人を知ることが出来るように、その人を正しく知覚しなさい。
神が創造したものの中に見知らぬ者などいません。
神が創造したようにあなたも創造するには、あなたの知っているもので、自分のものとして受け入れられるものしか創造できません。
神は、神の子供たちを完全な確信を持って知っています。
神は、神の子供たちを知ることによって創造しました。
神は、神の子供たちを完全に認識しています。
お互いを認識していない時、神の子供たちは神を認識していないのです。
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