奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第3章 「無垢なる知覚」より3-1本文
第3章 3-1 犠牲を伴わない贖罪
ACIM-Text- chapter3-1-1
ある点をもう一歩進んで完全にはっきりさせなければ、いまだに奇跡と結び付けて考えられている恐れの名残はどれも消滅しないでしょう。
キリストが十字架刑になったことが贖罪を確立したのではなく、復活したことで贖罪を確立したのです。
これについて誠実な キリスト信者の多くが誤解してしまいました。
何かが欠けているという欠乏を信じていない者は、誰一人このような思い違いをするはずはありません。
確かに、十字架刑を逆の観点から見たなら、あたかも神が、神の子たちの一人が善良であったが故に苦しむことを認め、奨励したようにさえ見えます。
このような実に残念だとしか言いようのない解釈は投影から生じたので、これが多くの者を神に対してひどく恐れを抱くにまで至らせてしまったのです。
このような全くもって宗教的ではない概念が多くの宗教に入り込んでいます。
けれども、本当の キリストを信じる者はここで立ち止まって、「これはどうしてなのだろうか」と聞くべきです。
神が自らの言葉で神の子には相応しくない考え方だとはっきり言明したようなことを、神自身でするということがあり得るでしょうか。
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最善の防衛法は、他者の在り方を攻撃する事ではなく、むしろ真理を保護することです。
どんな概念であれ、もし、その概念を正当化するためにそれを評価する基準を全て逆にする必要があるならば、そのような概念を受け入れることは賢明とは言えません。
このような方法に従うのは、規模が小さいことに当て嵌めるにしても苦しい思いをし、規模が大きい場合には本当に悲惨なことになりかねません。
迫害が度々起こるのは、神自ら 救済の為という名目で自分の子を迫害した、という酷く間違った知覚を「正当化」しようとする試みの結果です。
このように言うこと自体に意味がありません。
これを乗り越えることが特に困難だと思われているのには訳があります。
そのような間違い自体が他の間違いを正すよりもっと難しいということではありません。
しかし、多くの者はそれには防衛法として優れた価値があると見込んで、この間違いを放棄する気にならなかったのです。
別の言い方をするならば、親が子に「自分が叩かれ痛い思いをするより、こうして痛い思いをさせる方がもっと辛い」などと言うことがありますが、それで子供を折檻するやり方を良しとすると考えるようなものです。
私達の父なる神が本当にこのような考え方をすると信じられるでしょうか。
こうした考え方をみな拭い去ることが極めて重要です。
心にこのような考えが何一つ残らないように確かめなければなりません。
あなたの悪い行いの為に、私が「刑罰を受けた」のではありません。
贖罪が教える学びには全く悪いところはありませんが、もし、このような歪みでいくらかでも害されたとしたら、その学びは失われたことになってしまいます。
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「主は言われる。仇は私がとる」と記されている言葉は、誤って知覚されたことであり、そうしておいて自分自身の「邪悪」な過去を、神のものにしようとしています 。
「邪悪」な過去は神とは全く関係がありません。
それは神が創造したものではなく、持続することもありません。
神は天罰というものを信じてはいません。
神の御心はそのような方法では創造しません。
神はあなたの「邪悪」な行ないを持ち出して非難するようなことはしません。
では、その神が、私を非難するということがあり得るでしょうか。
このように仮定することがいかに不可能に近いことか、またいかに全て投影によって生ずるものであるか、それを本当にはっきりと認識しなさい。
このような間違いが数多くの関連した間違いの原因となったのであり、神がアダムを拒絶しエデンの園から無理やり追い出した、と信じられているのもその一つです。
これが、私が誤ってあなたを指導していると、あなたが時々信じたりする理由でもあります。
私はあらゆる努力をして、意味を歪めることはほとんど不可能な言葉を使うように心がけています。
しかし、もしあなたがそう望むとすれば、いつでも象徴をねじ曲げることは可能です。
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犠牲にするという考えを神が思いつくことは全く有り得ません。
それは単に恐れから生じることなので、恐怖に怯える者たちは見境がつかなくなることがあります。
犠牲的行為はどれも私が与えた訓令に反する行為であって、「天国にいる父が慈悲深くあるように、あなたも慈悲深くありなさい」と言っておいたのを無視していることになります。
多くの キリスト信者にとって、ここで言われていることが自分のことだと悟るのは難しいようです。
有能な教師は決して生徒を怯えさせるようなことはしません。
恐れさせることは攻撃することであり、結果的には教師が教えようとすることを拒絶させてしまいます。
その結果、学習することは失敗に終わります。
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私が「世の罪を取り除く神の子羊」と呼ばれ続けてきたことは間違ってはいません。
しかし、その子羊が血に染まっていると表現する者たちは、これが象徴する意義を理解しているとは言えません。
正しく理解されさえすれば、それは私が無垢であるという極めて平易な象徴です。
ライオンと子羊とが一緒に横たわっている姿が象徴することは、力強いものと無垢であるものは争いの中にいるのではなく、平安の内に自然に生きているということです。
「心の清い人は幸せです。彼らは神を見るでしょう」というのは、同じことを違った言い方で言ったものです。
純粋な清い心は真理を知っており、そのことがそうした心の力となります。
罪の無さを力強さと結びつけて考え、弱さと結びつけることはないので、破壊することと無垢であることを混同することはありません。
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無垢であるものは何をも犠牲にすることはできません。
なぜなら、そうした無垢な心はあらゆるものを持っているのであり、その完全な姿を保護しようと励むだけだからです。
それは投影することできません。
ただ他の心を尊ぶことができるだけです。
それというのも、敬意を表すとは、本当に愛されている者たちが、自分に似ている者とかわす自然な挨拶だからです。
この子羊が「世の罪を取り除く」というのは、無垢でありまた恩寵の元にいる状態こそ、贖罪の意義が完全にはっきりしている状態だという意味です。
贖罪には曖昧なところは全くありません。
それは光の内に存在するので完全に明白です。
ただ、暗闇の中に覆い隠そうとする試みだけが、見ることを選ばない者たちにとって近寄り難いものにしてしまったのです。
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贖罪そのものが照らし出すのは、真理以外の何ものでもありません。
したがって、贖罪は悪意がないということの典型であり、ただ祝福を注ぐだけです。
もし、それが完全に無垢であるもの以外の何かから生じていたとすれば、このようなことはできません。
というのも、無垢であるものは邪悪を自覚していないので叡智そのものであり、邪悪なものは存在しないからです。
しかし、それは真実であるものを何もかも完全に自覚しています。
復活は、何ものも真理を破壊することはできないということを実証しました。
善であるものは、たとえ悪がどのような姿で現れようがそれに堪えられます。
光が闇のかもしだす形態など完全に無くするからです。
したがって、贖罪こそ完全なレッスンとなります。
この贖罪こそが、私の教えた他のレッスンは全て真実だという決定的実証と言えます。
もし、あなたが今ここでこの一般的な結論を受け入れることができれば、数ある小さな学びから学習する必要はなくなります。
もし、これを信じることができれば、あなたは全ての間違いから解放された身となるのです。
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神の無垢性が、神の子の本当の心の状態です。
この状態においてこそあなたの心は神を知っています。
神は象徴的な存在ではなく、事実であるからです。
神の子をあるがままに知ることによって、あなたは犠牲的行為ではなく贖罪こそが神の祭壇に相応しい唯一の贈り物であり、そこには完全であるもの以外は何ものも属さないと悟ります。
無垢なる者が理解していることこそ真理そのものです。
それ故に、無垢なる者の祭壇は本当に輝かしいのです。
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