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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第3章 「無垢なる知覚」より3-6本文
第3章3-6 裁きと権威の問題
ACIM-Text- chapter3-6-1
私たちは既に「 最後の審判」について話し合ったことがあります。
けれども、詳細にわたって十分に話したとは言えません。
「 最後の審判」が過ぎれば、もはや裁くものは何もありません。
「審判」とは象徴的なものです。
なぜなら、知覚を越えたところに裁きはないからです。
聖書の「人を裁いてはならない。あなたがたも裁かれないようにするためである」という言葉は、「もし、他者の実在を裁くなら、あなた自身の実在も裁くことになるのを避けられなくなる」ということです。
ACIM-Text- chapter3-6-2
知るよりも裁きを選ぶなら、平安を失う原因となります。
裁きとは、叡智ではなく知覚を土台とするプロセスです。
以前、私がこのことに触れた時、知覚するには選択する必要があるという点について話しました。
そして、それにはあらかじめ評価する必要があるのは明らかであると指摘しました。
裁くことは常に拒否することです。
それは、あなた自身のことであれ、他者のことであれ、裁かれる対象の持つ否定しがたい面だけを強調することはありません。
知覚して拒絶したものや、裁きを下して不完全と見なしたことは、既に知覚されたものなのであなたの心の中に残っています。
あなたが苦しめられる幻想の一つは、自分で否定・批判・非難という裁きを下したものには何の影響力もないと信じ込んでいることです。
このことは、自分が否定・批判・非難だと裁いたものは存在しないと信じていない限り、真実にはなりません。
あなたがこれを信じていないことは歴然としています。
そうでなければ、もともと否定・批判・非難という裁きを下したはずがありません。
最終的には、あなたの裁きが正しかろうが間違っていようがそれは重要ではありません。
どちらの場合も、実在しないものを信じようとしているだけです。
このことは、どのような種類の裁きにおいても避けられません。
なぜなら、裁きが暗示するのは、実在とは自分で自由に選べるものだという信念だからです。
ACIM-Text- chapter3-6-3
自分自身や兄弟たちを裁こうとする気持ちを全く持たずに接する時、思わずこみ上げてくる素晴らしい解放感や、心に深く感じる平安とはどのようなものであるか、あなたには想像もつきません。
自分の本性が何であり、兄弟たちの本性が何であるか、それに気づけば、どのような形であれその人たちを裁くことには意味がないと悟るでしょう。
事実、あなたが裁きを下しているのは確かだからこそ、あなたには兄弟たちの意味が分らなくなっているのです。
自分には、裁く以外に他に為すべき方法がないと信じることから、全てにおいて確信が持てなくなります。
あなたは自分の人生を律するために裁きを下す必要はなく、ましてや自分自身を律するための裁きも必要ありません。
叡智の前では、全ての裁きは自然に停止します。
そしてこれが、知覚の替わりに再認識できるようになるプロセスです。
ACIM-Text- chapter3-6-4
あなたは、自分で知覚しておきながら、受け入れることを拒否してしまった全てのものを、非常に恐れています。
それを自分が受け入れないと拒んだので、それに対して制御する力が無くなってしまったと信じています。
それ故に、そのことを悪夢の中で見たり、あるいは嬉しくなるような楽しい夢と思わせるような見せかけの夢として見たりします。
自分が受け入れることを拒否したものは、何一つ自覚できなくなっています。
拒否したもの自体は危険ではありませんが、あなたがそれを自分にとって危険と思えるようにしてしまったのです。
ACIM-Text- chapter3-6-5
あなたが疲れを感じるとき、それは自分を疲れることが可能なものだと裁きを下したからです。
あなたが誰かを見て冷笑するとき、その理由はその人を価値のない者と裁いたからです。
あなたが自分自身を冷笑するなら、たとえそれが自分の方が他の人より劣っていて価値が低い者だという思いに耐えられないというだけの理由からだとしても、あなたは他の人たちのことを冷笑せずにはいられません。
こうしたことの全ては、本質的に必ず落胆をもたらすものなので、あなたに疲れを感じさせます。
あなたが疲れるということは実際には出来ないことですが、あなたが自分で自分を疲れさせることは確かに可能です。
絶え間なく裁こうとして気を張り詰めることは、非常に耐えがたいものです。
このように衰弱させてしまうような能力を、それほど心に深く抱いて大事にするというのも奇妙なことです。
しかし、あなたが実在の創造者になりたいと思うなら、裁きを下すことに固執して譲らないでしょう。
あなたはまた、いつかは自分が裁きを受けることになると信じて恐れを抱き、裁きを見ることになるでしょう。
あなたが裁きには自分自身の権威を防衛するための武器として効力があると信じる限り、その程度によって信念が存在します。
ACIM-Text- chapter3-6-6
神はただひたすら慈悲だけを差し出しています。
あなたの言葉もただ慈悲だけを反映すべきです。
それこそあなたが授かったものであり、また与えるべきものだからです。
正義とは一時的な手段であり、言い換えるなら、慈悲の意味をあなたに教えようと試みることです。
それは裁きを下すものとなりますが、その唯一の理由は、あなたが正義を欠くことが可能だからです。
ACIM-Text- chapter3-6-7
私はいくつかの異なった兆候について述べてきましたが、それが現れる次元においてはほとんど限りないほどの変化があります。
しかし、その全てにあてはまる原因はただ一つであり、それが権威の問題です。
この問題こそが「諸悪の根源」なのです。
自我の作り出す兆候はどれも、名辞矛盾を含んでいます。
なぜなら、心は 自我と 聖霊とに分離されているので、そのため何であれ 自我の作り出すものは不完全で矛盾するものだからです。
このような擁護しきれない状況は権威の問題の結果です。
というのも、権威の問題は、その前提として一つのあり得ない想念を受け入れているので、途方もない想念を思い付くことしかできないからです。
ACIM-Text- chapter3-6-8
権威についての論点は、実際には誰が創造者なのかという問題です。
あなたに権威の問題があるとすれば、それは必ず、あなたが自分自身の創造者であると信じて、自分の妄想を他の人たちに投影しているからです。
そうしておいて、あなたはその状況を、創造者としてのあなたの立場を奪おうとする他者が、文字通りあなたと論争している状況として知覚することになります。
これこそが、神の力を奪ってしまったと信じる全ての者たちが犯す根本的な誤りなのです。
このような信念は、それを信じる者たちにとっては非常に恐怖を感じるものですが、神を困らせることはありません。
しかし、神はその信念を取り消したいと切望しています。
その理由は、自分の子供たちを罰するためではなく、その誤りが子供たちを不幸にすると知っているからです。
神に創造されたものは、既に真の創造者たる存在を与えられていますが、あなたがその創造者から分離することを選ぶとき、あなたは創造者不明である方を求めます。
あなたは自分の真の創造者たる存在に確信が持てないので、自分を創造した者は不明だと信じます。
こうして、自分で自分を創造したと信じることに意義があるように思える状況に自分を置くことになります。
誰が創造者なのかという論争は、あなたの心の中に極めて多くの不信を残し、確信が持てないでいるため、自分は本当に存在しているのかどうかさえ、心が疑ってしまうほどです。
ACIM-Text- chapter3-6-9
拒絶したいという欲望を全て断念する者だけが、自分が拒絶されることもあり得ないと知ることができます。
あなたは神の力を奪いませんでした。
しかし、それを失ってしまったことは確かです。
幸いにも、何かを失うということは、無くなってしまったということではありません。
それはただ、それがどこにあるのかを思い出せないというだけのことです。
それが存在することは、あなたにそれが見分けられる能力や、どこにあるのかを思い出せるといった能力に左右されることではありません。
裁くことなく実在を眺めて、それがそこにただ在ると知ることは可能です。
ACIM-Text- chapter3-6-10
平安は霊(Spirit)の持つ生まれながらの天性です。
誰でも自分の受け継いだものを受け入れたくないと拒む自由はありますが、何を自分が受け継ぐのかを決める自由はありません。
誰もが決断しなければならない問題点は、誰が創造者であるかという根本的な疑問点についてです。
恐れというものは全て、時には多くの事情が込み入った上で、究極的には真の創造者たる存在を否認することから生じています。
それにより見下されるのは、決して神ではなく、神を否定する者たちの方です。
真の創造者として神を否定することは、あなたにもたらす平安の理由を自分自身にも否定することであり、そのようにして、あなたは自分自身を部分的にしか見ることができなくなります。
このような奇妙な知覚こそが、権威の問題です。
ACIM-Text- chapter3-6-11
何らかの形で自分が幽囚されていると感じていない者は一人もいません。
もし、これがその人の自由意思の結果だとするならば、その人は自分の意思は自由ではないものと見なさなければなりません。
そうでなければ、こうした立場において、堂々廻りの推論をしていることが極めて明白となります。
自由意思は自由に至る解放を与えてくれるものでなければなりません。
裁きを下すことは、必ず自分自身を幽囚します。
なぜなら、それは自分の望みを不安定な心の秤によって、無数の実在の切れはしを選り分けるからです。
願望は事実ではありません。
願望するということは、意図するだけでは十分ではないと仄めかしています。
しかし、正しい心の状態では誰一人、願望したものが意図したものと同じように実在性を持つとは信じません。
「まず、神の国を求めよ」と言う代わりに「まず、神の国を意図せよ」と言いなさい。
そうすれば、「私は自分が何であるかを知っており、自分の受け継いだものを受け入れる」と述べたことになります。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第3章「無垢なる知覚」目次