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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第9章 「贖罪の受容」9-5本文
第9章9-5 癒されていない治療者
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自我による許しの計画は、神の赦しの計画よりも遥かに広く用いられています。
なぜなら、それは癒されていない治療者たちによって担われているからであり、したがって、それは自我に由来するものだからです。
では、癒されていない治療者について、ここでもう少しよく考えてみることにしましょう。
癒されていない治療者は、その言葉の定義から言っても、自分が受け取っていないものを与えようとしているということです。
たとえば、神学者であれば、「私は惨めな罪人であり、あなたもそうである」という前提から始めるかもしれません。
もし、心理療法士であれば、攻撃はその人自身と患者の両方にとって実在のものだが、どちらにとってもそれは問題にならないという、同様に信じがたい信念から始めることになりがちです。
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私がこれまで繰返し述べてきた通り、自我の信念は分かち合えないものであり、それ故に、そのようなものは実在しません。
では、自我の信念を「明らかにする」ことで、どうしてそれらを実在のものにすることが出来るでしょうか。
真理を求めて空想の中を探そうとする治療者は、誰であれ癒されていないに違いありません。
なぜなら、真理をどこに捜すべきか分かっておらず、したがって、癒しの問題に対する答えも持っていないからです。
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悪夢を自覚することには利点がありますが、それはただそのような夢は実在しないということと、その中に含まれるものはどれも無意味だと教えることが可能という利点です。
癒されていない治療者はそれを信じていないので、これを行うことは出来ません。
癒されていない治療者たちは全て、何らかの形で自我の許しの計画に従っています。
もし、それが神学者なら、おそらく自分たちに有罪判決をし、有罪宣告について教え、恐れに満ちた解決策を唱道しようとします。
その人たちは有罪宣告を神に投影しているので、神は報復する存在であるかのように扱い、神からの罰を恐れます。
その人たちのしたことは、単に自我と同一化し、自我のすることを知覚することで、この混同によってその人たち自身に有罪判決をしただけです。
こうした概念に対していくつもの反発があったのも無理はありませんが、それに反発するということは、依然としてまだそれを信じているということになります。
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いくつかの新しい形の自我の計画も、古くからのものと同様に役に立ちません。
なぜなら、形は関係なく、その内容は変わってはいないからです。
たとえば、新しい形の一つでは、心理療法士が悪夢の中の自我の象徴を解釈した後、そうした象徴を悪夢が実在すると証明するために使うことがあります。
そのように悪夢を実在のものにしておいて、それからその夢を見ている者の重要性を軽視することによって、その悪夢がおよぼす結果をぬぐい去ろうと試みます。
もし、その夢を見ている者も実在していないと見なされるとすれば、これも癒しをもたらす一つの方法となるでしょう。
しかし、もし夢を見ている者と心が同一視されるなら、聖霊を通した心の訂正能力は否定されることになります。
これは自我の見地からも矛盾したことであり自我も普通、混乱している自我でさえ、通常その矛盾には気付いています。
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もし、恐れに対抗するための方法が心の重要性を減らすことだとしたら、どうしてそれが自我の力を強められるでしょう。
このような歴然とした矛盾が、心理療法で何が起きるのかを、なぜ誰も真に説明した人がいない理由です。
何も本当に起こらないのです。
癒されていない治療者は実在性のあることは何一つ起こりません。
そして、その人は自分自身が教えていることから学ばなければなりません。
その人の自我はいつも状況から何かを手に入れようとします。
したがって、癒されていない治療者はいかに与えるべきか分からず、その結果、分かち合うことも出来ません。
その人は訂正をもたらすように働いていないため、訂正することが出来ません。
その人は自らも何が実在するかを分かっていないにも関わらず、それを患者教えるのは自分に任されていると信じています。
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では、何が起こるべきなのでしょうか。
神が「光あれ」といった時、光は現れました。
心理療法士がするように、心の闇を分析することによって光を見いだせるでしょうか。
あるいは、神学者がするように、自分自身の中の闇を認めた上で、それを除去できる光は遠くにあると強調しながら、その光を捜し求め、光を見いだせるでしょうか。
癒しは神秘的なものではありません。
それが理解されない限り何も変わることはありません。
光とは理解そのものだからです。
「惨めな罪人」は魔術なしで癒さることが出来ず、「重要でない心」も魔術がなければ自らを尊ぶことが出来ません。
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だとすれば、自我によるこの二つのアプローチでは、必ず行き詰まりの状態に達しますが、それは自我特有の「どうしようもない状況」であり、自我は常にそこに向かって導きます。
人がどこに向かって進んでいるかを指摘することは、その人の助けになるかもしれませんが、方向を変える援助もしない限り、その指摘の意味は失われます。
癒されていない治療者は、その人のためにそれをすることは出来ません。
自分自身のためにさえそれが出来ないからです。
治療者が提供できる唯一の有意義な貢献は、自分のために方向を変えてもらい、もはやどんな種類の悪夢も信じていない自分を、実例として提示することだけです。
かくして、治療者の心の内なる光が、質問者に答えることになります。
そのようにして、質問者は自分に光が見えるからこそ光は在るということを、神と共に必ず決断することになります。
そして、質問者による承認によって、治療者はそこに光があると知ります。
これが、知覚が究極的に叡智へと翻訳される方法です。
奇跡を行う者は光を知覚することから始め、絶え間なくその光を拡張させ、その承認を受け入れることによって、自分の知覚を確かさへと翻訳します。
光が及ぼす数々の結果が、光がそこに在ることをその人に確信させます。
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治療師は癒しません。
その人は、癒しが起こるがままにさせておくのです。
その人は闇を指し示すことは出来ますが、光はその人からのものではないので、自分で光をもたらすことは出来ません。
けれども、光はその治療師のためのものであるから、その人の患者のためでもあるはずです。
聖霊だけが唯一の治療師です。
聖霊は自らが導き手となるどのような状況においても、癒しを明確にします。
あなたは、ただ聖霊にその機能を果たしてもらうことが出来るだけです。
聖霊はこのために何の助けも必要としません。
あなたが助けるようにと聖霊が送ってくる人を助けるために、あなたが何をすべきかは聖霊が教えてくれます。
そして、あなたが邪魔をしなければ、聖霊はあなたを通してその人に語りかけるでしょう。
あなたは手助けするために導き手を選ぶのであり、誤った選択は何の助けにもならないと覚えておきなさい。
しかし、また正しい選択は助けになるということも覚えておきなさい。
聖霊を信頼しなさい。
助けることが聖霊の機能であり、聖霊は神からのものだからです。
自分自身ではなく聖霊を通して、他の人々の心を聖霊に目覚めさせるにつれ、あなたは自分がこの世界の法則に従っているのではないと理解するようになります。
しかし、あなたが従っている法則には効力があります。
「善なるものとは効力のあるもののことである」とは、理にかなっていますが、十分でなはい言葉です。
ただ善なるものだけが効力を持ち得るのです。
それ以外のものは何も全く効力がありません。
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このコースは、極めて直接的で単純な学びの状況を差し出し、あなたが何をすべきかを教えてくれる導き手も提供します。
もし、それを実行すれば、それに効力があることが分るでしょう。
言われた言葉よりも、それに従った成果にもっと説得力があります。
その結果はその言葉より説得力があります。
その結果が、その言葉が真実であるとあなたに確信させるでしょう。
正しい導き手に従うことによって、あらゆるレッスンの中でも最も単純なレッスンをあなたは学ぶことになります。
あなたはその実によってその人たちを見分け、その人たちは自分自身を知るでしょう。
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