奇跡講座テキスト編27章27-2 癒しに対する恐れ

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第27章「夢を癒す」27-2本文

 

第27章27-2 癒しに対する恐れ

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癒しとは恐ろしいものでしょうか。

多くの人にとっては、その答えは「その通り」です。

なぜなら、告発は愛の前に立ち塞がるものであり、傷ついた 身体は告発者のようなものだからです。

そのような 身体は、信頼と平安の前にしっかり立ちはだかっていて、虚弱な者には信頼は置けず、傷ついた者には平安の根拠は皆無であると宣言しています。

兄弟に傷つけられても、それでもなお兄弟を愛し信頼できる人がいるでしょうか。

その兄弟は攻撃してきたし、再び攻撃するでしょう。

あなたの傷ついた 身体は、あなたがその人から保護されるべきだと教えているのだから、その人を保護するべきなどもってのほかです。

赦す事は慈愛の行為かもしれませんが、その人に与えられるべきではありません。

その人の罪悪感を思えば哀れんでもいいとしても、赦免されてはなりません。

そして、もしあなたがその人の罪過を赦すとするなら、あなたのする事は単にその人が当然の報いとして溜め込んできた罪悪感をさらに罪悪感を深めるだけだという事になります。

 

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癒されていない人たちは、赦すことが出来ません。

なぜなら、その人たち自身が、 赦しは不公平だという事の証人だからです。

その人たちは罪悪は見過ごしても、それが引き起こした結果は持ち続けます。

しかし、実在すると自分で信じている罪を赦す事が出来る人はいません。

そして、結果をもたらしたものは実在しているに違いありません。

なぜなら、それのもたらしたものはそこにあり、目に見えているからです。

赦しは憐憫とは違い、本人にとって真実だと思えるものを見過ごして赦そうとするのではありません。

そもそも、悪に対して善で報いる事自体が不可能な事です。

赦しは、最初に罪を確立しておいて、その後にそれを赦す事はしません。

「兄弟よ、あなたは私を傷つけた、しかし、二人の中で私の方が善人なので、私が受けた傷についてあなたを赦すことにする」、などと、いったい誰が本気で言えるでしょうか。

その人の 赦しとあなたの傷つきは共存できません。

一方がもう一方を否定し、偽りだとせざるをえないのです。

 

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罪を宣言しながらそれを赦すというのは、理性が理解する事の出来ない矛盾です。

それは、自分に対して行なわれたことは 赦しに値しないと主張します。

そして、 赦しを与える事によって兄弟に慈悲を施ししますが、その人は実際のところ無垢な人ではないという証拠を持ち続けます。

病んでいる人は、告発者であり続けます。

その人たちは、兄弟を赦す事が出来ず、同様に自分自身を赦す事も出来ません。

真の 赦しを内に宿している人が苦しむ事はあり得ません。

その人は、罪の証拠を兄弟の目の前に掲げる事はしません。

したがって、その人はそれを既に見過ごし、自分の目からも取り去っているはずです。

赦しが、片方だけのもので、もう片方には与えられないという事はあり得ません。

赦す人は癒されます。

その人の癒される事で、その人が本当に 赦した事が示され、もはやその人自身や全ての命あるものに対して振りかざしたくなるような咎めの気持ちを微塵も持っていないと立証されます。

 

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赦しは、それがあなたの兄弟とあなた自身に癒しをもたらさない限り、本当のものではありません。

その人の罪が実在してはいない事を実証するためには、あなたはそれが自分にいかなる結果を及ぼしていない事を証言しなくてはなりません。

それ以外に、どうすればその人が無罪となり得るでしょう。

それに、その人が罪悪感を抱く事を当然とするようないかなる結果も引き起こしていないというのでない限り、どうしてその人の無垢性が正当なものとされるでしょう。

罪とは、完全に取り消して見過ごす事の出来ない結果を引き起こすはずのものだという理由だけの理由で、 赦しの及ばないものです。

結果が取り消される時、罪とは単なる誤りであるに過ぎないという事が証明されます。

あなたが赦す者となり、兄弟と自分自身に救いを差し出せるようになるために、自分に癒しを受け入れなさい。

 

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壊れた 身体は、心が癒されていない事を示しています。

癒しの奇跡は、分離は何の結果も及ぼさない事を立証します。

あなたは、自分がその人に対して証明しようとするものを信じるでしょう。

証明する力はあなたの信念から生じます。

そして、あなたが言う事や行なう事や考える事の全ては、あなたがその人に何を教えているかを証言します。

あなたの 身体は、その人のせいで苦痛を被った事は一度もないと教えるための手段となり得ます。

そして、それが癒されることで、その人の無垢性についての無言の証明をその人に差し出す事が出来ます。

この証明こそ、千人の発言よりも遥かな力で語り得るものです。

なぜなら、こうしてこそ、その人が赦された事がその人自身に向かって立証されるからです。

 

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奇跡は、あなたに与えたものに劣らないものを、兄弟に差し出す事が出来ます。

こうして、あなたの癒しは、あなたの心が癒された事を示し、兄弟がしなかった事について 赦した事を示します。

こうして、その人もまた、自分の無垢性は一度も失われなかったと確信し、あなたと共に癒されます。

このようにして、奇跡はこの世界が決して取り消す事は出来ないと証言している全てのものごとを取り消します。

そして、絶望と死は、生命へと呼び招くいにしえのラッパの音を前に、必ず姿を消すことになるでしょう。

この呼びかけには、死と罪悪のか細く惨めな叫び声を遥かに超える力があります。

からへ、またから子自身のものへのいにしえの呼び掛けは、この世界が耳にする終わりのラッパとなるでしょう。

兄弟よ、死は存在しません。

兄弟から何も傷つけられてはいなかった事をその人に示したいと願う時、あなたはこれを学ぶでしょう。

その人は自分の手があなたの血で染まっていると考え、咎められた者となっています。

しかし、あなたには、自分の癒しによって、その人の罪悪感は無意味な夢が生み出したものに過ぎない事をその人に教える機会が与えられています。

 

 

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奇跡とは何と公正なものでしょう!

それは、罪悪感からの完全な解放という平等な贈り物を、兄弟にもあなた自身にも授けるからです。

あなたの癒しが、あなたと共に兄弟も苦痛から救うのであり、あなたはその人に幸福を願ったからこそ癒されます。

これが、奇跡が従う法則です。

つまり、癒しはいかなる特別性も見ません。

奇跡とは、憐憫からではなく、愛から生じます。

そして愛は、全ての苦しみは空虚な想像であり、いかなる結果ももたらない愚かな願望に過ぎないと証明するでしょう。

あなたの健康は、手を血に染めていない兄弟、すなわち罪の証拠によって心の奥底が罪悪感で重たくなっていない兄弟を見たい、という欲求の成果です。

そして、あなたの願うものは、あなたに与えられ、見る事が出来るようになります。

 

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あなたが安らぎを得るために支払う「代価」は、その人の安らぎです。

この「価格」について、 聖霊は世界と異なった解釈をします。

世界はそれを、あなたが救われる事はその人の救われる事を犠牲にするという「事実」を述べたものとして知覚します。

聖霊は、あなたの癒しはその人の癒しの証拠であり、その人の癒しから離れたものではあり得ないと知っています。

苦しむことをその人が承諾している間は、あなたは癒されないでしょう。

しかし、あなたはその兄弟の苦しみは無目的で、全く何の原因もないものであるということを、その人に示す事が出来ます。

その人にあなたが癒された事を示しなさい。

そうすれば、その人はこれ以上苦しむ事を承諾しなくなります。

あなたとその人の視界において、その人の無垢性が確立されたからです。

神の子は、自分は確かに神の子であることを思い出したので、朗らかな笑い声があなたの溜息と入れ替わるでしょう。

 

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そうなると、誰が癒しを恐れるのでしょうか。

それは、兄弟の犠牲や苦痛を、自分の安らぎを表象するものと見ている人たちだけです。

その人たちにとっては、自分たちの無力さと弱さが、兄弟の苦しみを正当化する根拠を表しています。

兄弟を絶えず悩ます罪悪感の痛みは、兄弟は奴隷であるが自分たちは自由である、と証明するのに役立ちます。

その人たちが被る絶え間ない苦痛は、自分達は兄弟を拘束しておくからこそ自由であると実証します。

そして、この犠牲における均衡を崩さないために、病気が要求されます。

病気を肯定するこうした議論に加わるために、 聖霊が一瞬たりとも足止めされたりするでしょうか。

それに、狂気に耳を傾けてようとしてあなたが立ち止まるからといって、あなたの癒しを遅らせる必要があるでしょうか。

 

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訂正はあなたの機能ではありません。

それは罪悪ではなく公平さを知っている存在に属するものです。

もし、あなたが自分で訂正の役割を引き受るなら、あなたは 赦しの機能を失う事になります。

訂正とは赦すことに過ぎず、告発する事ではないと学ぶまでは、誰にも赦すことは出来ません。

あなた一人では、 赦しと訂正が同じものであることが見えないので、訂正はあなたからのものではありません。

アイデンティティーと機能は同一のものであり、あなたは自分の機能によって自分自身を知るのです。

したがって、もし自分の機能と別な存在の機能とを混同しているとすれば、あなたは自分自身についても、自分の本性についても混乱しているに違いありません。

分離とは、の機能をから奪って、それがのものである事を否定したいという願望以外の何でしょうか。

しかしそれは、もしのものでないのであれば、あなたのものでもありません。

なぜなら、あなたは自分で取り上げようとするものを必ず失う事になるからです。

 

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分離した心においては、アイデンティティーは必ず分割されているように見えます。

それに、相反する目的や異なった目標を持つ機能を統一されたものとして見る事は、誰にも出来ません。

そのように分裂した心にとっての訂正とは、あなたが自分のものだと思っている罪を他の誰かの中で罰するための一つのやり方とならざるを得ないのです。

こうして、その人はあなたの兄弟ではなくて犠牲者となり、あなたよりも罪が深いという点であなたと違っていて、したがって、その人に比べればずっと無垢であるあなたによる訂正を必要としている、という事になります。

これが、その人の機能をあなたの機能から分列させ、あなた達それぞれに二人に異なった役割を与えます。

そのようにして、あなた達は、一なるものと知覚される事は不可能となり、一つの目標しかない共有のアイデンティティーを意味する単一の機能を担えなくなります。

 

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あなたが行なおうとする訂正は、必ず分離させる事になります。

なぜなら、それがあなたによってそれに与えられている機能だからです。

訂正とは 赦しと同一のものであると知覚する時、あなたはまた 聖霊の心と自分の心が一なるものである事をを知ります。

こうして、あなた自身のアイデンティティーが発見されます。

しかし、 聖霊は与えられたものをもってして働かなければならず、あなたは 聖霊に自分の心の半分しか使わせません。

したがって、 聖霊はその半分を代表していて、あなたが自分のものだと思って大切にしているもう一方の半分とは異なった目的を持っているように見える事になります。

こうして、あなたの機能は分割されていて、その半分がもう一方の半分と対立しているように見える事になります。

そして、このそれぞれの半分が、二つのものとして知覚されているひとつの自己の内側における分裂を表象しているように見えます。

 

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自分に対するこのような見方がどのように拡張していかざるを得ないか、考えてみなさい。

そして、拡張することが想念の目的であるので、その真の本質に即してどのような想念も拡張していくという事実を見落とさずにいなさい。

二つの自己という考えからは、その二つの間で分割された機能という必然的な見解が生じます。

そして、あなたが訂正しようとするのは誤りのうちの半分だけなのに、あなたはそれを誤りの全部だと考えます。

自分の謝りとその人誤りとが一つものだと見なされないように、兄弟の罪があなたによる訂正の主要な標的になります。

自分の誤りは間違いであるけれど、その人の誤りは罪であって、自分のそれとは同じではありません。

その人の誤りは罰に値するが、自分の誤りは公平にみて見過ごされるべきだ、という事になります。

 

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訂正についてのこのような解釈においては、あなたは自分自身の間違いを見る事さえもしません。

訂正の焦点はあなたの外側に、すなわちこの知覚が存続する間はあなたの一部にはなり得ない者の上に置かれています。

有罪宣告されたものは、決してその告発者のもとに戻されません。

告発者はそれを憎んできたのであり、今でもなお自分の恐れの象徴としてそれを憎んでいるからです。

これが、あなたの兄弟であり、あなたの一部となるには値しないのであなたの外側にあるものであり、すなわち否定されているもう一方の半分をなすものです。

そして、その人の存在を除いて後に残るものだけが、あなたの全てとして知覚されます。

この残された半分がまさしくもう一方の半分でもあるとあなたが認識するようになるまで、 聖霊はこの残された半分に対してもう一方の半分を表象しなければなりません。

そして、 聖霊はあなたとあなたの兄弟にひとつであって異なってはいない機能を与えることによって、これを行ないます。

 

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訂正は、双方に与えられる機能であって、どちらか一人にだけ与えられるものではありません。

それが分かち合われたものとして成就される時には、それはあなたとその人の中にある間違いを訂正せずにはいないのです。

それは、一方の間違いを癒さないままにしておいて、もう一方だけを自由にすることは出来ません。

そのようなものは分割された目的であり、分かち合われる事は不可能であり、したがって、それは 聖霊が自らのゴールをその中に見るようなゴールではあり得ません。

そして、 聖霊は、 聖霊には見えず 聖霊自身のものとして認識されないような機能を果たすことはないので、あなたは安心していなさい。

ただこうすることでのみ、たとえあなたが自分の機能について分離した見方をしていても、 聖霊はあなたの機能を損なわれることなく保つ事が出来ます。

もし、 聖霊が分割された機能を支持していたなら、あなたは本当に失われていたでしょう。

聖霊には、 聖霊自身のゴールを分割されてあなたとあなたの兄弟にとって別のものになっていると見るような能力はなく、それによってあなたは自分の機能でないものについて自覚することから守られています。

こうして、癒しがあなたとあなたの兄弟に与えられます。

 

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訂正は、訂正と 赦しが同じものであると知っている存在に任されなければなりません。

半分の心では、こうしたことは理解できません。

それならば、一なるものとして機能している統一されたに、訂正を任せなさい。

それは、目的において分裂していることはなく、ただひとつの機能を自らの唯一の機能だと思っているです。

ここに、それに与えられ、それが自分のものであると思っている機能があります。

その機能は、分かち合われてきたからこそ、その与え主のもとにある機能から離れてはいません。

聖霊がこの機能をこの機能を受け入れたことの中に、あなたの心が統一されるための手段が存在します。

分離したものとしてあなたに知覚されている二分されたあなたを、 聖霊の単一の目的がひとつにします。

そしてそれぞれが、自分の他の半分を自らの一部として受け入れられるように、互いに赦すことになります。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第27章「夢を癒す」目次

27-1    十字架刑の絵

27-2    癒しに対する恐れ

27-3    全ての象徴を越えて

27-4    静かな答え

27-5    癒しの手本

27-6    罪の証人たち

27-7    夢を見ている者

27-8      夢の「主人公」

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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