奇跡講座テキスト編27章27-1 十字架刑の絵

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第27章「夢を癒す」27-1本文

 

第27章27-1 十字架刑の絵

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不当に扱われたいという願望は、攻撃と無垢性を組み合わせようとする妥協的な試みです。

いったい誰が全く相いれないものを組み合わせ、絶対に一つになれないもので統一を作り出せる人がいるでしょうか。

穏やかな道を歩みなさい。

そうすれば、あなたは禍を恐れず、夜の影を恐れる事もないでしょう。

しかし、あなたの道の上に恐れの象徴を置いてはなりません。

そのような事をするなら、あなたは茨の冠を編む事になり、兄弟もあなた自身もそれを免れられなくなるでしょう。

あなたは自分だけを十字架にかけることは出来ません。

そして、もしあなたが不当な扱いを受けるとしたなら、兄弟はあなたが見ている不公平さに苦しまなければなりません。

あなたは自分だけを犠牲にする事は出来ません。

というのも、犠牲とは全的なものだからです。

もしそれが起こり得るとすれば、それはが創造した全てと、愛するを犠牲にする父なる神をも共に巻き込む事になります。

 

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あなたが犠牲から解放された時、神の子は解放が顕現され、犠牲からの解放が神の子のものだと示されます。

しかし、あなたは自分が被る苦しみのの一つひとつを、それこそ、その人が攻撃という罪を犯している証拠だと見なしています。

こうして、あなたは自分自身を、その人が無垢性を失った事のしるしにしてしまい、その人はあなたを見さえすればその人が有罪宣告を受けている事が分かるという事になります。

そして、あなたにとっては不公平であった事がその人に起こるのであれば、それは正義にかなった事とされます。

あなたが被っている不公正な報復が今度はその人に属するものとなり、それがその人の上にある時あなたは解放されるという事になります。

あなた自身をその人の罪悪の生き証人にしたいと願ってはなりません。

なぜなら、あなたは自分自身がその人のために作り出した死を免れる事は出来ないからです。

しかし、その人の無垢性の中にであれば、あなたは自分自身の無垢性を見出す事が出来ます。

 

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あなたが、自ら苦しみを味わう事や奪われたかのような思いを抱くことや不当に扱われる事や、何かを必要とする事などに同意する時はいつでも、神の子を攻撃している罪で兄弟を非難しているだけなのです。

あなたは、その人の目の前に十字架にかかった自分の絵を掲げています。

そうすることで、その人の罪が天あなたの地と死で天国に書かれている事や、そうした罪がその人の前を行き、天国の門を閉ざし、その人に地獄を宣言するという事が、その人に見えるようにしています。

ところが、これは地獄に書かれているのであって、天国に書かれているものではありません。

天国では、あなたは攻撃を超越しており、その人の無垢性を証明するからです。

あなたは、自分がその人に差し出すあなた自身の絵を、自分自身に見せているのであり、あなたはその絵に全幅の信を捧げています。

聖霊は、その人に与えるようにと苦痛も非難も描かれていないあなたの絵を差し出します。

そして、その人の罪悪に殉じさせられていたものが、その人の無垢性の完璧な証人となるのです。

 

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証人の力はその跡に確信をもたらすので、信念を超えるものです。

証人を信じられるのは、その人が自分自身を超えて、自分が表象しているものを指し示すからです。

病気になって苦しんでいるあなたは、兄弟の罪悪を表象しているに過ぎません。

つまり、それはその人があなたに負わせた傷を忘れさせないようにするためにあなたが派遣する証人であり、あなたはその罪悪から絶対にその人を逃れさせないと誓っています。

この病んだ哀れな絵は、その人を罰するのに役立ちさえするならと、あなたが受け入れているものです。

病んだ人は誰に対しても無慈悲であり、感染によって殺そうとします。

もし、「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手に掛かって私は死ぬ」と言うことが出来さえすれば、死さえも安い代償のものと見えます。

なぜなら、病気は兄弟の罪悪の証人であり、死は兄弟の謝りが罪に違いない事を証明するからです。

病気は、「小さな」死に過ぎません。

それは、まだ全的になっていない復讐の形態の一つです。

しかし、それは自らが表象しているものを擁護し確信を持って語ります。

あなたが兄弟に送り付けた荒涼として苦々しい絵を悲嘆にくれて眺めてきたのは、あなたです。

あなたは、そのような絵がその人に見せてきたものの全てを信じてきました。

なぜなら、それがその人の中にある罪悪を証明していて、あなたはそれを知覚し、愛したからです。

 

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今や 聖霊に触れられる事によって優しくなった手に、 聖霊は異なったあなたの絵を置きます。

それは依然として 身体の絵ではあります。

なぜなら、あなたの本性は見る事も、描き出す事も出来ないものだからです。

とはいえ、この 身体は攻撃という目的のために使われた事はなく、それゆえに、全く苦痛を被った事もありません。

それは、あなたは傷つけられることは有り得ないという永遠の真理を証言していて、それ自体を超えて、あなたとその人の双方の無垢性を指し示しています。

この絵をあなたの兄弟に見せなさい。

そうすれば、その人に朗らかな笑い声と愛の中で全てが癒され、涙の一粒一粒が拭い去られるのを見るでしょう。

そして、その人はそこに自分が赦されている自分を見て、癒された眼差しでその絵を眺め、その向こう側にあなたの中に見えている無垢性を見るでしょう。

ここに、その人は一度も罪を犯した事ためしはないという証拠があります。

ここには、その人の狂気がその人に命じた事は一度も行なわれた事はなく、どんな種類の影響も及ぼした事はないという証拠があります。

それはまた、その人が胸に課したどのような非難も正当とされた事はなく、いかなる攻撃も恐れの毒針を容赦なくその人に突き刺す事など出来ないという証拠です。

 

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その人の罪悪ではなく、無垢性を証言しなさい。

あなたが癒される時、幻想が真実ではない事が証明されるので、それがその人の安息となり、健やかにします。

この世界の動機となっているものとは、生命に対する意志ではなく、死に対する願望です。

世界の唯一の目的は、罪悪の実在性を証明する事です。

この世界の想念や行為や感情にはこれ以外の動機はありません。

こうしたものは全て、それらが代弁し表象する体系に信憑性を与えるために、あなたがあらかじめ信じるつもりで召喚した証人たちです。

そして、それぞれが色々な声を持っており、様々な言葉で、あなたの兄弟とあなた自身に語りかけます。

とはいえ、それらが伝えるメッセージは、どちらに対しても同じです。

身体を飾り立てる事は、罪悪を証明する証人がいかほど素晴らしいかを見せようとする事です。

身体に対する心配は、あなたの生命が何と脆く傷つきやすいか、また、あなたの愛するものがいかにあっけなく破壊されるかを実証します。

憂うつは死を語り、虚栄心はあらゆるものごとについて本気で心配している事を示しています。

 

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最も強力に虚しさを語る証人、しかもその他の全ての証人たちを支えて、その人たちが罪を正当化する絵を描き上げるのを助ける証人とは、あらゆる形の病気です。

病んでいる人たちは、不自然な欲求や奇妙な必要の一つひとつを持つだけの理由があります。

そのように短く断ち切られる生命を生きていれば、いったい誰がつかの間の喜びの価値を大切にせずにいられるでしょう。

そこに、どんな永続する楽しみがあり得るでしょう。

か弱い人たちにとって、盗み取ってきた喜びのかけらは自分たちの短い命に対する正当な報酬だと信じる権利があるのではないでしょうか。

その人たちがそうした恩恵を享受しようと享受しまいと、その人たちの死がいずれその全てに対する代価を支払う事になります。

人生をどのように過ごすとしても、生命の終わりは必ずやってきます。

だから、瞬く間に過ぎゆく儚いものに喜びを見出すべきだ、という事になります。

 

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こうしたことは罪ではありません。

しかし、それは罪や死が実在し、無垢性であろうと罪であろうと墓場の中では同じ結末を迎えるという奇妙な信念を証明しています。

もし、これが本当だとするなら、可能なうちに儚い喜びを求め、ささやかな楽しみを大切にする事で満足する事が道理にかなっているという事になります。

しかし、このような絵においては、 身体とは中庸なものであり、それそのものにはゴールはないものとして知覚されていません。

なぜなら、 身体は非難の象徴となっていて、罪悪の結果が今も目に見えるところに存在しているのだから、その原因を否定する事は出来ないという、しるしとなっているからです。

 

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あなたの機能は、罪の原因はあり得ないと兄弟に示すことです。

自分自身を、自分の機能であるものが存在し得ない事を立証する絵として見るとは、何と虚しい事でしょうか。

聖霊の絵は、 身体 身体以外の何かに変える事はしません。

それは、単に非難のしるしと、非難されるべきもののしるしを全て、 身体から取り去るだけです。

目的を持たないものとして描かれたら、それは病気であるとも健康であるとも知覚される事はなく、悪いものであるとも善いものであるとも知覚されません。

どんな形であっても 身体を裁く事が出来るような根拠は全く提供されません。

それは、生命もないのですが、死んでもいません。

それは、愛や怖れの体験の全てから離れて存在しています。

なぜなら、今、それはまだ何も証言していないものとなり、それの目的も定まっていないので、心は再びそれが何の為のものとするを自由に選択できるからです。

もはや、それは有罪宣告を受けてはおらず、ただ目的を与えられ、やがて受け取る事になる機能を果たせるようになるのを待っています。

 

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罪というゴールが取り去られた後のこの何も無い空間の中に、天国が自由に思い出されます。

ここでは、天国の平安が訪れることが可能で、ここにおいて完璧な癒しが死にとって変わりる事が出来ます。

身体は生命のしるしとなり、復活を約束するものとなり、死臭を嗅ぐ事に倦み果てた人たちにに与えられる不滅性の息吹となる事が出来ます。

身体に、癒しという目的を持たせましょう。

そうすれば、 身体は自らが受け取ったメッセージを送り出し、自らの健やかさと美しさによって、自らに表象される真理と価値を宣言するでしょう。

身体に、永遠に攻撃されることのない終わりなき生命を表象する力を受け取らせなさい。

そして、 身体が兄弟に与えるメッセージを、「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手で私は生きる」とならしめなさい。

 

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これを達成させるための単純な方法はこのようなものです。

過去においてあなたは、 身体の目的は罪悪感を助長することだと自分には分かっていると確信していましたが、そのような過去からの目的を、もう一切 身体に持たせない事です。

なぜなら、そのような目的は、あなたのいびつな絵が 身体が表象するものを示す永続的なしるしだと主張するものだからです。

こうなると、異なった見方、つまりもう一つの目的が 身体に与えられる余地が残らなくなります。

あなたは 身体の目的を知りません。

あなたはただ、自分自身から自分の機能を隠すために自分で作り出した物体に、目的という幻想を与えたに過ぎません。

目的がなければこの物体は、 聖霊の与えた機能を隠すことは出来ません。

それならば、それの目的とあなたの機能の両方を今こそ和解させ、一つものとして見なさい。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第27章「夢を癒す」目次

27-1    十字架刑の絵

27-2    癒しに対する恐れ

27-3    全ての象徴を越えて

27-4    静かな答え

27-5    癒しの手本

27-6    罪の証人たち

27-7    夢を見ている者

27-8      夢の「主人公」

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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