
奇跡講座(奇跡のコース)マニュアル編4-1
4-(1) 信頼
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これが、神の教師としての機能を果すためのその人たちの能力の土台を成すものです。
知覚は学びから生じる結果です。
事実、知覚が学びです。
原因と結果は決して分離してはいないからです。
神の教師たちは世界を信用しています。
それというのも、彼らは、世界は、それ自体が作り上げた法則によって支配されているのではないことが分ってきたからです。
それはその人たちの内にありながらも、自分たちのものではあらざる力によって支配されています。
全てのものを安全に保っているのはこの力です。
この力を通して、神の教師たちは赦された世界を眺めるのです。
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一旦この力が経験されたなら、自分自身の取るに足らない力などもう二度と再び信用することは出来なくなります。
一体誰が、偉大な鷲のような力が与えられているというのに、ちっぽけなスズメの翼で飛んでみようとなどするでしょうか。
そして、誰が、神の賜物が目の前に置かれている時に、 自我のみすぼらしい捧げ物の方を信頼しようとするでしょう。
何がその人たちに心を入れ替えようという気にさせるのでしょうか。
ア.信頼の発達過程
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最初に、先ずその人たちは「取り消しの時期」とでも呼べるような期間を通過しなければなりません。
これには、必ずしも苦しみが伴うはありませんが、普通そのように経験されがちです。
あたかも、様々なものが取り上げられていくように思えますが、それはそうしたものに価値の無さが認識されつつあるに過ぎないということが、最初のうちはほとんど理解されません。
知覚が物事を違う見方で見ざるを得ない立場に置かれない限り、どうしてその価値の無さが知覚され得るでしょうか。
その人はまだ、その転換を完全に内面においてのみ転換できるところまで来てはいません。
したがって、その計画は、時には外的な状況のように見えるものの変化を必要とすることもあります。
こうした変化はいつも助けになります。
神の教師がここまで学んだとき、次の段階へと進むことになります。
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続いて、神の教師は「区別する時期」を通過しなければなりません。
これは、常にやや難しい時期となります。
なぜなら、自分の生活の中での変化は助けになるということを学んだので、今では、全ての事を、それがもっと有益さを増すのか、それとも妨げになるのか、という基準で決める必要が出てくるからです。
その人は、以前自分が大切にしていた物事のほとんどとまでいかなくてもそのうちの多くが、生じてくる新しい状況へと自分の学びを置き換させる能力を妨げるだけだと分ってきます。
そしてまた、自分が本当に価値のないものを大切にしてきたために失うことや犠牲を恐れて、学んだレッスンを普遍化しようとしないということです。
全ての物事や出来事や出会いや境遇が助けになるということを理解するには、かなりの学びを要します。
この幻想の世界において、そうしたことがどれほど助けになるかという度合いに応じてのみ、そうしたことにも何らかの実在性が付与されるべきなのです。
「価値」という言葉は、それ以外何一つ当てはまりません。
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神の教師が通り抜けなければならない第三の段階を、「放棄する時期」と呼ぶことができます。
もし、これが「望ましいものを諦める事」だと解釈されるなら、強烈な葛藤を生じることになるでしょう。
このような苦悩を完全に免れる神の教師はほとんどいません。
しかし、価値のあるものを価値のないものから選り出すということは、次の明白な一歩を踏み出さない限り、無意味です。
だから、この二つのことが重なる段階は、神の教師が自分自身にとって最善の利益を真理のために犠牲にするようにと求められているように感じる時期となりがちです。
その人は今のところ、そんな要求がいかに全く不可能なことかいうのを悟っていません。
その人が、この事を学べるのは、実際に価値のないものを本当に手放したときにのみ分ってきます。
そうすることで、その人は悲嘆を予想していたのに、代わりに気が楽になって快活な気分を見出し、何かを自分に要求されていると思っていたのに、自分に授けられている賜物を見出します。
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ここで、「安定化の時期」が訪れます。
これは静かな時で、この時期に神の教師は少しの間、程よい平安のうちに休息できます。
ここで、その人は自分が学んだ事を統合することになります。
ここで、その人には自分の学んできたことの転移価値が見え始めます。
それが持つ潜在力は、文字通りとてつもないものであり、その神の教師は今や自分の完全な脱出口があると見えるところまで進歩しています。
「自分の望まないものを手放し、自分の望むものを取っておくこと」、この明白なことはなんと単純なことでしょう!
そして、なんと容易に実行できることでしょう!
神の教師には、こうした小休止の時期が必要です。
その人は、まだ自分で思っているほど遠くまで来てはいません。
しかし、さらに進む準備が出来たら、力強い仲間たちと連れだって行くことになります。
ここで、今しばらく休息して、さらに前進する前にその人たちを集めるのです。
ここからは一人で進むのではありません。
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次の段階は、まさしく「不安定な時期」となります。
今になって、神の教師は何が価値があるもので、何が価値がないものなのか、自分は本当にはよく分ってはいなかったと理解しなくてはなりません。
その時点までに実際学んだのは、自分は価値のないものは望まず、価値のあるものを望むということが分っただけでした。
しかし、自分自身で区別しようとしたことは、自分にその違いを教えるのには無意味でした。
その人自身の思考体系の中心となっている犠牲についての概念、それがその人が正しい判断をすることを不可能にしていました。
意欲というものを学んだと自分では思っていましたが、今度は、その意欲が何のためのものかが自分では分っていないことが見えてきます。
だから、その人はこれから、もしかするときわめて長い長い期間にわたって到達不可能であり続けるかもしれない状態を、達成しなければならないのです。
その人は、あらゆる判断を脇に置くことを学ばなくてはならず、どのような状況にあっても自分は真に何を望むかということだけを問わなくてはなりません。
こうした方向に向かうそれぞれの段階をかなりしっかり強化されていなければ、実際確かにそれは困難なものになることでしょう。
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そして、最後に「達成の時期」があります。
ここにおいて、学んできた事が統合されます。
以前はただの影に過ぎないと見えていたことが、今こそ、堅実に習得されたものとなり、平穏な時だけでなく、ありとあらゆる「非常事態」においても頼りに出来るものとなります。
実のところ、静寂に在る状態こそがその習得の結果であり、正直な学習と一貫性のある思考と十分な転移がもたらした成果です。
これが、真の平安の段階です。
ここにこそ、天国の状態が余すところなく反映されているからです。
ここからは、天国への道は開かれており、容易です。
事実、それはそこにあります。
もし、心が既に平安が完全であるなら、一体誰がどこかに「行こう」としたりするでしょうか。
そして、誰が静寂さをもっと望ましい何かに取り替えようなどとしたりするでしょうか。
一体何が、これ以上に望ましいものとなり得るでしょうか。
マニュアル編4.神の教師たちの特性
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