←19-4-D 第四の障害 神に対する恐れ〔奇跡のコース テキスト編19章〕
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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章19-4-D ⅰベールを取り去る(8~14)本文
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あなたはきょうだいとこんな遠くまで一緒にやってきたということを忘れてはなりません。
そしてここまであなた達を導いてきたのは、 自我ではないことは確かです。
平安を妨げるものが何であれ、それを 自我の助けで乗り越えることなどできません。
自我は自らの秘密を明らかにして、あなたにそれらをよく見た上でそれを越えて行くようにと命じることはありません。
自我は、自らの弱みをあなたに見せることはなく、真実なるものからあなたを離しておく力など 自我にはないと、分からせるつもりもありません。
あなたをここまで連れてきた案内役は、あなたと一緒にとどまっています。
そして、あなたが自分の目を上げれば、少しも恐れを抱かず恐怖に見てみる覚悟ができているでしょう。
しかし、まず初めに、目を上げなさい。
そしてきょうだいに目を向け、その人の幻想を完全に赦すことで生まれる無垢性の中で、その人の幻想を見ようとしない信のまなざしをもって、その人を見つめなさい。
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誰ひとり、恐怖心を抱かずに神に対する恐れを正視することはできません。
ただし、もしその人が贖罪を受け入れ、幻想は実在しないと学ぶなら、それは別のものになります。
誰もこの障害を前に一人で立ち向かうことはできません。
きょうだいが傍らを共に歩んできていなかったなら、こんなに遠くまで達することはできなかったはずです。
それに自分の胸の中で、きょうだいを完全に 赦していなければ、あえてその障害を見ようとする者は誰一人いません。
ここにしばらく立って、震えずにいなさい。
あなたには心の準備ができています。
聖なる瞬間の中で、私たちはともに加わりましょう。
ここは、聖なる瞬間に与えられた目的があなたを導いてくれた場所です。
そして、私たちを一緒にここまで連れてきた 聖霊が、あなたに必要な無垢性を差し伸べてくれることを信頼し、またそれを、私の愛と 聖霊の愛ゆえにあなたはそれを受け入れるということを信頼して、私たちは心をひとつにしましょう。
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また、時期尚早にこうしたことを見るのは不可能です。
ここは、誰もが準備ができた時に必ず来る場所です。
いったん自分のきょうだいを見つけたなら、その人は確かに準備が調っています。
ただし、その場所に単に達しただけでは充分とはいえません。
目的のない旅は無意味なだけで、たとえそれが終わっても何の意味もなさないように見えます。
旅の目的を達成したと気づかないかぎり、どうしてその旅が終わったと分かるでしょうか。
旅路の終わりを目の前にしているここで、あなたにはその目的がはっきり分かります。
そして、ここであなたは、それを見つめるか、それともわき道へそれるか、どちらか一方を選択することになり、もしここでわき道にそれたら、いつかまた戻ってきてもう一度選択するだけのことです。
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神に対する恐れを見てみるには、確かに多少の準備を要します。
ただ正気の者だけが、正真正銘の正気を逸したすがたや荒れ狂う狂気の沙汰を、恐れではなく、哀れみと慈しみを持って見つめることができます。
ただ、もしその人たちがそんな正気とはいえない気持ちを同じようにいだいているとすれば、恐ろしく思えるだけのこと、そしてあなたが自分のきょうだいを申し分のない信頼と愛と優しさで見つめるようになるまでは、そんな気持ちを分かち合っていることは確かなことです。
完全な 赦しを前にして、あなたは未だに赦すことなく佇んでいます。
あなたは自分のきょうだいを恐れているからこそ、神を恐れているのです。
あなたは自分の 赦していない相手を、恐れています。
だから、誰一人として恐怖心を傍らにしつつ、愛に達することはできません。
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あなたのそばに立っているこのきょうだいは、まだあなたにとって他人のように見えています。
あなたはその人を知らないし、その人についてのあなたの解釈はとても恐れに満ちたものです。
だからあなたは、自分自身のように思えているものを傷つけないようにするために、依然としてその人を攻撃しています。
しかし、あなたの救いはまさにその人の掌中にあります。
あなたにはその人の狂気を見て、自分もそれを共有しているがゆえにそれを憎悪します。
それで、その狂気を癒せる哀れみや 赦しを、みな恐れに譲ってしまいます。
きょうだいよ、あなたは自分のきょうだいを赦す必要があります。
なぜなら、あなたは共に狂気を共有するか、天国を共有するか、そのどちらかをすることになるからです。
そして、あなたときょうだいは信を抱いて、共に目を覚ますか、さもなければ全く覚まさないか、二つにひとつなのです。
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あなたのそばに、贖罪の聖杯を差し出してくれる人がいます。
聖霊はその人のなかにいるからです。
あなたはその人の罪を持ち出して咎めるつもりでしょうか。
それとも、自分の目の前にさしのべられた贈り物を受け入れるつもりでしょうか。
救いを与えてくれるこの人は、あなたの味方でしょうか、それとも敵でしょうか。
自分の選択に応じたものをその人から受け取ることになるのを思い出し、その人がどちらであるかを選択しなさい。
あなたはその人の罪を赦す力をうちに秘めているのと同様に、その人もあなたの罪を赦す力をうちに秘めています。
あなたもその人のどちらも、ひとり自分自身だけにそれを与えることはできません。
しかし、あなたの救い主はどちらの傍らにも立っています。
その人をありのままのその人で居させなさい。
そして、愛を敵にしようとなどすることはやめなさい。
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自分のそばにいるあなたの友、 キリストに目を向けなさい。
その人は何と神聖で、何と美しいでしょう!
あなたは キリストが罪を犯したものと思っているが、それはあなた自身がその人に罪のベールをかけ、その素晴らしさを隠そうとしたからです。
それでもなお、 キリストは自らの神聖さを分かち合おうとして、あなたに 赦しをさしのべています。
この「敵」この「見知らぬ人」は、なおも キリストの友としてあなたに救いを差し出しています。
キリストの「敵」、罪を崇拝する者たちは、自分がいったい誰を攻撃しているのか分かっていません。
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念