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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「11章 神か、 自我か」より
11章11-5 自我の「力動論」 (その1)
ACIM-Text- chapter11-5-1
幻想というものをよく見てみない限り、誰もそれから逃れられません。
見ないでいることで、そうした幻想は護られています。
そのような幻想に尻込みする必要はありません。
危険な筈は無いからです。
私達には、 自我の思考体系をもっと綿密に見てみる準備が整っています。
なぜなら、力を合わせればそのような思考体系を払いのけられるような明りを持っているのであり、あなたは自分がそのようなものを望んでいないと悟ったので、それを見てみる覚悟があるに違いありません。
これを本当に冷静にやってみましょう。
私達は、ただ正直に真理を捜そうとしているだけだからです。
これからしばらくは、 自我の「原動力」について学ぶことになります。
というのも、あなたが 自我の思考体系を本物にしてしまっているので、そのような体系を越えて見るためには、まずそれの原動力をよく見てみる必要があるからです。
このような間違いを、落ち着いて力を合わし取り消した上で、それを越えて真理を見つめることになります。
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癒しとは叡知に達する道において、邪魔になるものを全て取り去るということでしかありません。
そして、幻想を払いのけるには、それを護ろうとしないで、真っ向から見つめる以外に方法があるでしょうか。
だから恐れることはありません。
あなたが見てみようとするのは恐れの源であり、恐れは実在的なものではないということが分かり始めているからです。
恐れがもたらす結果なども、単にそのようなものの実在性を否定しさえすれば、払いのけられるということも認識し始めました。
その次に、結果を伴わないものは存在しないと気づくようになるのは明らかでしょう。
法則というものは、孤立状態で働くことはないのであり、実在しないものに至るようなことは起こっていないということです。
何かの実在性は、それが拡張したものによって見分けられるとすれば、実在しないものに至るようなものは真実では有り得ません。
では、恐れというものを見つめることを怖がるには及びません。
それを見ることできないからです。
明快さは、混乱していることを明瞭にし混乱を無くし暗闇に光をあてれば、もはやそこに闇はないのです。
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「 自我の力動」について学ぶにあたり、この言葉自体何の意味もないと理解することから始めましょう。
この言葉はまさに自ずと矛盾する表現を含んでおり、意味のない言葉にしています。
「力道」とは何かをする力という意味を含み、分離についての誤った考えは全て、 自我は何でもする力を確かに持っているという信念に基づいています。
これをあなたは信じているので、 自我を恐れます。
しかし、その真相は極めて単純です。
全ての力は神に属します。神からではないものは全く何をする力もありません。
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では 自我を見てみようとするなら、力道について考えてみるのではなく、妄想について考えることになります。
あなたはきっと、妄想的な体系など恐れずにじっくりと見ることができるでしょう。
それの源が実在的でないとすれば、どんな影響も及ぼすはずがないからです。
もし、 自我の目標に気づけば、恐れる必要のないことがもっと明瞭になり、その目標は意味をなさないということが実にはっきりするので、そのためにどんなに努力しようが、それを無価値なものに費やすことになるのは必然的です。
自我の目標とは 自我の自律、つまり自主性をもつことであるのはしごく明白です。
では、最初からそれが目標とするのは、分離して 自我自体だけで十分だとし、どんな力からも独立し自らの力だけに頼るということです。
それ故に、 自我は分離を象徴します。
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あらゆる想念には目的があり、そうした目的はいつでもその想念が何であるかということから生ずる当然の成り行きと言えます。
自我に由来することはことごとく、その 自我の中心的な信念から生ずる当然の成り行きであり、その結果を取り消す方法は、単にその源はあなたの本性に一致してしないので、自然なものではあるはずがないと気づくことです。
私が前に述べたように、神に背いて意図するのは願望的思考であり、本当に意図することではありません。
神の意志は一つです。
なぜなら、その意志の拡張されたものがそれ自体に似ていないものであるはずがないからです。
では、あなたが味わうという本当の葛藤とは、 自我の根拠のない願望と、自分が分かち合っている神の意志との間でのことです。
これが本当の葛藤になるでしょうか。
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あなたは自律するためではなくて、創造するための独立心を持っています。
あなたの創造の機能は全て、自ら完全に神に依存することで果たせるのであり、神は自らの機能をあなたと分かち合おうとします。
神がそれを進んで分かち合おうとすることなので、あなたが神に依存するのと同じように、神はあなたに依存することになります。
あなたから離れて独立すること意図しない神に対して、 自我の傲慢さをその神のせいにしないことです。
神は自らの自主性を保つために、あなたをそれに含まれたのです。
神から離れて自主性をもつことに意義があると信じられるでしょうか。
自我の自律を信じているので、あなたは自分が神に依存しているということを知らずにいるのですが、それを知ったときにこそあなたは自由を見いだせます。
自我は何かに依存することを全て脅威と見ており、あなたの神を待ち望む気持ちさえも混乱させて、 自我自体を安定させる手段にしてしまっています。
しかし、あなたの心の葛藤についての 自我の説明に欺かれないことです。
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自我はいつも分離のために攻撃します。
これをする力を持っていると信じるので他のことは何もしないでいます。
自我が目標とする自律は、確かに他の何ごとでもないからです。
自我は実在について全面的に混乱していますが、自らの目標を見失うことはありません。
あなたよりよほど用心深いというのも、自らの目標に全くの確信があるからです。
あなたは自分の目標に認識していないので混乱してしまっています。
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あなたが気づかなければならないのは、 自我が一番あなたに悟ってほしくないことは、あなたがそのような 自我に恐れを抱いているということです。
というのは、もし 自我が恐れを生じさせられるとすれば、それがあなたの独立心を減らし、あなたの力を弱めそうだからです。
けれども、 自我はあなたが忠誠を尽くせば、 自我があなたに力を与えることができると主張します。
これを信じなければ、少しも 自我に耳を傾けたりしないでしょう。
では、もしあなたが、それを受け入れるとは自分を卑下し、自分自身の力を奪うことになると悟りさえすれば、どうやって 自我はその存在を続けることができるでしょうか。
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確かに 自我は、あなたにいろいろと自分を貶します。
傲慢で、疑い深く、「何の苦労もしらず」、よそよそしくて、情が厚いとは言えなく、無神経で、単純なうえ自暴自棄にさえなっている、と。
しかし、本当に恐れなど抱いてはいないと思わせます。
恐れを無くしてしまうのではなくて、それを最小限にとどめておこうと絶えず努力し、実のところ 自我がそれに使う手口は極めて巧妙だと言えます。
自我は、分離していることを、恐れるがゆえに支持するようにさせずにおいて、どうして分離について説教できるでしょう。
それにあなたは、 自我がこれをしていると気づいたなら、それの言うこと聞くでしょうか。
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