奇跡講座テキスト編11-6 救いへの目覚め

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編11章 「神か、自我か」より

 

11-6 救いへの目覚め

ACIM-Text- chapter11-6-1

確かに自我は、あなたにいろいろと自分を貶してみさせます。

傲慢で、疑い深く、「何の苦労もしらず」、よそよそしくて、情が厚いとは言えなく、無神経で、単純なうえ自暴自棄にさえなっていると、だが本当に恐れなど抱いてはいないと思わせます。

恐れを無くしてしまうのではなくて、それを最小限にとどめておこうと絶えず努力し、実のところ自我がそれに使う手口は極めて巧妙だと言えます。

自我は、分離していることを、恐れるがゆえに支持するようにさせずにおいて、どうして分離について説教できるでしょう。

それにあなたは、自我がこれをしていると気づいたなら、それの言うこと聞くでしょうか。

見えるものを信じないということは不可能ですが、同様に、信じないものを見るということも不可能です。

知覚の対象となるものは体験に基づいてその印象が高まり、体験が信念となります。

そうした信念が固まってはじめて、知覚の対象となったものが安定してきます。

では実質的に、信じるものを見るというのは確かです。

そのことを、「私を見ずに信じる人は幸いである」と述べたときに言おうとしました。

なぜなら、キリストの復活を信ずる者たちはそれを見るようになるからです。

ここでいう復活とはキリストが自我に完全に打ち勝つことであり、それを攻撃ではなく超越することによって成し遂げます。

キリストは確かに自我とその仕業を全て越えて、父とその王国へと昇っていくからです。

 

ACIM-Text- chapter11-6-2

あなたはキリストの復活に加わるつもりでしょうか。

それともキリストの十字架刑に加わるつもりでしょうか。

自分の兄弟たちに有罪の宣告をするのでしょうか。

それとも自由にするのでしょうか。

自分の牢獄を超越して父のもとへ昇る気があるのでしょうか。

こうした質問はみな同じであり、一緒に答えられます。

知覚とは何を意味するのか、これについてかなりの混乱が見られます。

なぜなら、この言葉は認識していることと、それをどう解釈しているか、その両方に使われているからです。

しかし、解釈しないで気づくということはできません。

あなたが知覚することはまさしく自分で解釈したことだからです。

 

ACIM-Text- chapter11-6-3

この奇跡のコースの教えは実にはっきりしています。

それがはっきりわからないとすれば、あなたがその教えに逆らって解釈しているからであり、その結果信じてもいないということです。

そして信念が知覚することを決定するのだから、この教えが何を意味するか知覚しなく、したがって受け入れもしません。

けれども、異なった体験は異なった信念をもたせ、そうした信念が異なったことを知覚させます。

というのは、信念を持てば知覚することを学べるし、体験が教えるということも確かです。

私はあなたが今までにない体験をするようにと導いているのであり、あなたはそうした体験を徐々に拒む気がなくなってきます。

キリストについて学ぶのは容易です。

キリストと知覚するには全く何の緊張感も伴わないからです。

キリストの知覚することはあなたが自然に認識していることであり、ただ自分でそれに歪曲を取り入れると疲れを覚えるだけのことです。

自分の内なるキリストに解釈してもらうようにし、それに自分が見るものを、神の子に相応しいとは言えません。

心の狭い取るに足らない信念で制限しようとしないことです。

キリストが自らに属する者の中に来るまでは、神の子は自分自身に父はいないと見てしまうからです。

 

ACIM-Text- chapter11-6-4

私はあなたの復活であり、あなたの生命です。

あなたは神の内に生きているので、私の内に生きています。

そして全ての者はあなたの内に生き、同様にあなたは全ての者の内に生きます。

それならある兄弟を尊敬に値しないと知覚しておいて、自分自身のことを同じように知覚せずにいられるでしょうか。

そのうえ、自分自身をそのように知覚しておいて、神を同じように知覚せずにいられるでしょうか。

復活は既に為し遂げられていることを信じなさい。

それもあなたの内に為し遂げられています。

これこそ今真実であり、これからもそのままであり続けます。

復活は神の意志であり、その意志には時間は問題ではなく、例外もないからです。

しかし、自分自身で例外など作らないようにしなさい。

さもないと、何が自分のために為し遂げられているか知覚しないでいることになります。

私達は一緒に父のもとへ帰るのであり、それは始めも今もこれからも同じことです。

それこそ父が創造したままの神の子の天性であるからです。

 

ACIM-Text- chapter11-6-5

神の子の献身的な愛に伴う力を過小評価しないようにしなさい。

それにその人が崇める自我の神に与えた権限を過小評価しないことです。

その人は、それが自分で作った神にせよ、自分を創造してくれた神にせよ、自らの神の祭壇に自分自身をおくからです。

したがって、神の子は完全に奴隷の身となるか、完全に自由二なるかのどちらかとなります。

それは神の子が自ら受け入れる神にのみ従うからです。

十字架刑の神は、責め苦しめることを要求し、崇拝者たちはそれに従います。

そのような神の名において、自分自身を責め苦しめ、神の子の力は犠牲的行為と苦痛から生まれるものと信じています。

復活の神は何一つ要求しません。

なぜなら、取り上げること意図しないからです。

服従を求めることもしません。

それは従属することを暗に意味するからです。

ただ、あなたにぜひ自分の意志を自らのものとし、それに 従うようになってもらいたいと思っているだけです。

それも犠牲になるとか従属する気持ちでではなく、自由であるという喜びに満たされて従うようにと思っています。

 

ACIM-Text- chapter11-6-6

復活はきっとあなたが喜んで忠誠をつくさずにはいられなくさせます。

それは喜びの象徴だからです。

その復活のもつ思わず釣り込まれそうな力は全て、それが自分のそうありたいと望む姿を表しているという事実にあります。

自分を傷つけたり、卑下したり、恐怖を抱かせたりするものをことごとく置き去りにする自由をあなたに押しつけることはできませんが、神の恩寵を通して差し出すことはできます。

そして、あなたは神の恩寵によってそうした自由を受け入れられます。

神 は神の子を歓迎し、疑うことなく自らに属するものとして受け入れてくれるからです。

では、あなたに属するものとは誰のことでしょうか。

父は自分に属するものを全ての人あなたに与え、それに加えて神自身もあなたのものです。

復活するにつけ全ての人を守りなさい。

そうしないと、あなたが、永遠に自分に属するものに囲まれて、無事に神の内にて目覚めるということも ないでしょう。

 

ACIM-Text- chapter11-6-7

神の子の両手から釘を抜き、その額から後の棘を取り去ってはじめて、あなたは心の平安を見いだせるようになります。

そして、神の愛が、十字架刑にすることを求める自我の神に罪の宣告を受けた神の子を取り囲むでしょう。

私が無駄な死を遂げたなどと教えてはなりません。

むしろ、あなたの内に私が生きていると実証することなので、私は死んでいないということを教えて欲しなさい。

神の子を十字架刑にするのを取り消すことが、罪を購うためになすべきことだからです。

そしてこのために、一人ひとりが同じように重要な役割を担っているのです。

神は罪の無い神の子に裁きを下すようなことはしません。

自らを神の子に与えておいて、どうして裁きを下したりなさるでしょうか。

 

ACIM-Text- chapter11-6-8

あなたは自分自身を十字架に釘付けにし、頭には棘の冠をかぶせたのです。

けれども、神の子を十字架刑にすることはできません。

神の意志たるものが死ぬはずがないからです。

神の子は自分自身を十字架刑にしたことから贖われたのであり、あなたが、神から永遠の生命を与えられた者を死刑に引き渡すことできません。

十字架刑の夢はいまだにあなたの目に重々しくのしかかっていますが、夢の中で見ることは実在ではありません。

神の子を十字架刑にされたものと見て取る間中、あなたは眠っていることになります。

そのうえ、神の子を十字架刑にできると信じる限り、悪夢を見ているに過ぎません。

あなたは目覚め始めているとはいえ、いまだに夢を意識し、まだ忘れてはいません。

その夢を忘れキリストとしての自覚を持つのは、他の者たちが目覚め、あなたの罪の購いを分かち合うときです。

 

ACIM-Text- chapter11-6-9

あなたは自らの呼びか けに目覚めるでしょう。

目覚めるようにとの御呼びかけは自分の中にあるからです。

もし、私があなたの中に生きているとすれば、あなたは目覚めています。

けれども、あなたは、私があなたを通して行う業を見なければなりません。

もしそうでなければ、そうした業をあなたの為にしたのだとは見て取れないでしょう。

あなたを通して 私に何ができ、何ができないかなどと自分で制限しないことです。

さもないと、私があなたのためにできることを受け入れないからです。

けれども、そうしたことは既に成されたのですが、もしあなたが受け取ったものを全部与えないでいる限り、自分の贖い主は生きており、自分もその贖い主と共に目覚めたということが分からないでしょう。

贖われているということは、それを分かち合うことによってのみ見分けることができます。

 

ACIM-Text- chapter11-6-10

神の子は確かに救われています。

ただ、こうした自覚を神の子としての身分にある者たちにもたらせば、あなたがキリストによる贖いのために果たす機能は、私のと同じように重要なものとなります。

もし、その機能を私から学ぶなら、私の機能と似ているに違いないからです。

もし、自分の機能には限りがあるなどと信じるなら、私の機能をも制限していることになります。

奇跡に難しさの順序はないというのも、神の子は全ての人同等の価値を持つからであり、全ての人が平等であるとは全ての人が一つに結ばれているということです。

神の全ての力は神自らのそれぞれの部分の中にあり、意志に矛盾したものは、それが何であるにせよ大きくもなければ、小さくもありません。

存在しないものには寸法もなければ、尺度もありません。

神には全てが可能です。

そして、キリストには父に似た者になるようにと神の力が与えられています。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編11章 「神か、自我か」目次

11-0  序論

11-1  父性という贈り物

11-2  癒しへの招待

11-3  闇から光へ

11-4  神の子が受け継いでる賜物

11-5   自我の「力動論」

11-6  救いへの目覚め

 11-7  実在の状況

11-8    問題と答え

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

スポンサーリンク

関連記事

目次

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る Top