Contents
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第4章 「 自我の幻想」より4-5本文
第4章 4-5 「 自我と 身体」という幻想
ACIM-Text- chapter4-5-1
全ての事は、共に影響を与え合い良き事をもたらします。
自我の判断に従った場合を除いて、この事に一つも例外はありません。
自我は何を自らの自覚の中に入らせるかということについて最大限の警戒をしていますが、これはバランスのとれた心が自らを保つ方法ではありません。
自我は 自我の主な動機をあなたに自覚させないようにして、正気よりも抑制する事で支配する事を優先させるので、 自我のバランスは尚一層崩れてしまいます。
自我を生じさせ、 自我が仕える思考体系によれば、 自我がこのような事をする理由は充分にあります。
正気による判断は、必ず 自我に不利な判断となるので、 自我は自己保存のためにはそうした判断を何も残らないように消してしまわなければなりません。
ACIM-Text- chapter4-5-2
自我のバランスを失った状態になる主な原因は、 身体と神の想念を識別する力に欠けているということにあります。
神の想念は 自我にとっては受け入れ難いものです。
なぜなら、それらは、 自我そのものが存在していない事を明らかに示すものだからです。
したがって、 自我はそれらを歪曲するか、または、受け入れるのを拒否するかです。
しかし、 自我にはそれらの存在を消し去ることは出来ません。
したがって、 自我は 身体に関連する衝動の中の「受け入れたくない」ものを覆い隠そうとするだけでなく、神の想念をも覆い隠そうとします。
なぜなら、いずれも 自我に脅威を抱かせるものだからです。
自我はそうした脅威に直面したとき、何よりも 自我そのものの存続にしか感心がないので、両方とも同じものだと知覚します。
両方を同じものだと知覚することによって、自らが一掃されてしまうことから自分を救おうとしています。
そして、叡智を前にすれば 自我が一掃されることは確実です。
ACIM-Text- chapter4-5-3
神と 身体とを混同するような思考体系はどれも狂気でしかありません。
けれども、 自我にとって脅威になるか、ならないかという視点でのみ物事を判断する 自我にとっては、この混同はなくてはならないものです。
ある意味では、 自我が神を恐れているという事は少なくとも筋の通ったことと言えます。
というのも、神という考えは確かに 自我を一掃してしまうものだからです。
しかし、自らが 身体とこんなにも深い一体感を持っていながら、その 身体を恐れるというのは全く意味が成立しないものです。
ACIM-Text- chapter4-5-4
それは 自我が安全だと感じる事が出来る唯一の自己認識です。
自我にとっては、 身体の脆さと弱さ自体が、「あなたは神に属するものであるはずがない」という事の最高の論証になるからです。
これが、 自我が熱心に後押しする信念です。
なぜなら、 自我の住処とするのに充分なものとしてそれを受け入れられないからです。
ここにおいて、心は実際に狼狽えてしまうことになります。
心というものは本当に 身体の一部であり、その 身体が心を保護してくれると 自我から教えられているというのに、その一方で 身体は心を保護することは出来ないとも教えられるからです。
したがって、心は「護ってもらうためには、私は一体どこへいけばいいのだろうか」という疑問を抱きます。
それに対して 自我は、「私に頼りなさい」と答えます。
しかし、 自我自身が自らを 身体と同一だと主張してきたのだから、護ってもらうために 自我自身に頼る事には意味がないと心は 自我に思い出させます。
そして、心が抱くこの不安は根拠のないものではありません。
自我はこれに対する真の答えを持っていません。
そもそも、それに対する答えなど無いからです。
しかし、 自我は特有の解決法を持っています。
心の自覚の中からそうした疑問を消し去ってしまうのです。
一度そのような疑問を忘れたとしても、それが不安を生じることはあり、実際に不安を感じさせるのですが、それが問われることは不可能となるので、答えられることも出来なくなります。
ACIM-Text- chapter4-5-5
尋ねるべき問いは、「護ってもらうためには、私は一体どこへいけばいいのだろうか」という問いです。
「探しなさい、そうすれば見つかります」とは、あなたが見分けのつかないような何かを盲目的に必死に捜し求めるべきだという意味ではありません。
意味のある探求は意識的に取り掛かり、意識的に計画に従って準備され、意識的にそれに向かうことです。
ゴールが明確に形作られ、心の中に留めておかなければなりません。
学びと、学びたいという気持ちは、分かつことの出来ないことです。
あなたが最もよく学べるのは、自分が学ぼうとしていることが、自分にとって価値があると、自分で信じている時です。
しかし、あなたが学びたいと思う事の全てに、永続するような価値があるとは限りません。
実のところ、あなたが学びたいと思う事の多くは、そのようなものの価値は永続しないからこそ選ばれる場合があります。
ACIM-Text- chapter4-5-6
自我は、永遠であるものには献身しない方が有利だと考えています。
なぜなら、永遠であるものは神から来るに違いないからです。
永遠であることは、 自我が身につけようとする機能の一つですが、それを達成することにはいつも決まって失敗してきました。
自我は、永遠であるものについての問題は妥協しています。
また、真の問いにいくらかでも触れる全ての問題についても、同じように妥協しています。
本題から逸れた問題に関わることによって、 自我は真に問うべき問題そのものを隠し、それを心の外に置いておきたいと望んでいます。
重要でない事で忙しそうに関わるのは 自我の特徴ですが、それはまさにそのような目的のためです。
解決出来ないように仕組まれた問題に夢中になる事は、学びの為の進歩を妨げるために 自我が好んで使う手立てです。
しかし、こうして注意を逸らせる多くの策略を使おうとする者たちが決して尋ねられることのない質問が一つあります。
「それは、何のためのものだろうか」という質問です。
これこそが、あらゆるものに関してあなたが尋ねる事を学ぶべき質問です。
その目的は何なのだろうか。
どのような目的であれ、それが自動的にあなたの努力すべきことに向かわせてくれるでしょう。
あなたが目的について決定するなら、その時、あなたは将来の努力すべきことについて決断したことになります。
その決断は、あなたが自分の心を変えない限り効力を持ち続ける決定です。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第4章「 自我の幻想」目次