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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第4章 「 自我の幻想」より4-2本文
第4章4-2 自我と偽りの自律
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一体どのようにして心が 自我を作り出すことできたのか、と尋ねるのは最もなことです。
事実、それはあなたが尋ねることができる最良の質問でしょう。
しかし、過去の見地からその問いに答えることは無意味です。
なぜなら、過ぎ去ったことは重要ではないからです。
もし、同じような誤りを現在でも繰り返しているのでなければ、歴史は存在していないはずです。
叡智は完全に個人に関与しないので、抽象的な想念が叡智には相応しいです。
具体例は叡智を理解することに無関係です。
しかし、知覚には必ず特定の目的があるため、極めて具象的になります。
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誰もが皆、自分で 自我または自己というものを作り出しますが、それは不安定なものなので途方もなく変化しやすいものです。
また、人は自分が知覚する他者の為にも 自我を作り上げますが、そうした 自我も同じように変わりやすいものです。
このような、 自我同士が影響し合うことは、双方を変化させるプロセスとなります。
なぜなら、 自我は不変なる存在によって作り出されたわけでもなく、不変なる存在と共に作り出されたわけでもないからです。
こうした変化が心の中で互いに影響し合う時でも、物質的に接近して影響し合う時でも、同様に実に難なくこの変化が起こり得るし、確かに起こっているということをよく理解しておくことが大切です。
他者の 自我について考えることは、生身の存在と影響し合う場合と同じように、相対的な知覚を変化させることが出来ます。
自我というものが事実ではなく、ただの想念に過ぎないということを示すのに、これより良い例はないでしょう。
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あなた自身の心の状態が、 自我がどのようにして作り出されたのかを実証する良い例です。
あなたは、自分で叡智を投げ捨てた時、まるでその叡智はもともと自分のものではなかったかのようになります。
このことは極めて明白であるので、今そうなっているとただ気付きさえすれば、それは確かに起こり得るものだと分かります。
もし、これが現在でも起こっているなら、同じことが過去にも起こったからといって驚きはしないはずでしょう。
驚きとは、よく知らない物事に対してならもっともな反応ですが、そのように執拗に起こり続けていることに対しては、適切であるとは言えません。
しかし、今のところ心がそのように働いているのは確かですが、必ずしも心をそのように働かせる必要はないということを忘れてはなりません。
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動物が自らの子に対する愛と、子を守らなければならないという感覚について、考えてみなさい。
それは、動物が子を自分の一部だと見なしているから、そう感じるのです。
自分の一部だと考えるものに対して否定的な態度をとるようなことは誰もしません。
あなたは自分の 自我に対応するとき、神が自ら創造したものに対応するときと同じように、愛と保護と思いやりをもって対応します。
自分で作り出した自己に対して、あなたがそのように対応することは、意外なことではありません。
それどころか、それはあなたがいつの日にか自らが真に創造したものに対して示す対応の仕方に多くの点で似たところがあり、また、その人たちはあなたと同じように時間を超越したものです。
問うべきことは、 自我に対してどのように対応するかではなく、自分は何であると信じているかです。
信念とは 自我の働きであり、自分の起源について信じるかどうかの余地がある限りは、あなたはその問題を 自我の観点から見ています。
もはや教えられることが必要でなくなった時、あなたはおのずと神を知るのみとなります。
もう一つ別の知覚の仕方があるという信念は、 自我の思考にできる最も高尚な考えと言えます。
なぜなら、その考えには 自我は真の自己ではないという気配が僅かに含まれているからです。
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自我の思考体系を徐々に切り崩していくことは苦痛だと知覚するに違いありません。
しかし、そうした知覚は決して真実ではありません。
幼児は包丁や鋏を取り上げられると、激しく泣きわめきますが、しかし、取り上げられなかったとしたら、自分自身を傷つけることになるのは分かりきっています。
こうした意味で、あなたはまだ幼児なのです。
あなたは真の自己保存の感覚を分かっておらず、自分を一番傷付けるようなものが、自分に必要なものだと決めてしまいがちです。
けれども、あなたは、今そう認識しているかどうかは別として、あなたは既に、無害で助けになるという切り離せない二つの属性を兼ね揃えるための努力において、協力することに同意しています。
こうしたことに対するあなたの態度さえも、必然的に葛藤せざるを得ません。
なぜなら、どのような態度も全て 自我に基づくものだからです。
しかし、こうしたことはいつまでも続きません。
今しばらくの間辛抱しなさい。
そして、その成果は神と同じように確実だということを覚えておきなさい。
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自分は本当に満ち足りていると感じ、またその思いを持続できる者のみが、真に思いやりのある心を持てます。
これが何を意味するのかを考えてみるなら、このことは明白です。
自我にとっては、何かを与えるということは、それだけ自分の持ち分が減るという意味を含んでいます。
与えることを犠牲にすることと結びつけて考えているとき、あなたが何かを与える唯一の理由は、自分はそれよりもより良いものを手に入れられるのだから、それならばそれが無くても構わないと信じているからこそ与えます。
「手に入れるために与える」というのは、自らをいつも他の 自我との利害関係において評価する 自我にとっては、避けられない法則です。
したがって、 自我は自分をを生じさせた何かが欠けているという欠乏の信念に始終心を奪われています。
他の 自我たちが実在するという知覚全体が、自分自身も確かに実在するという 自我が自らを納得させる為の試みに過ぎません。
自我の言う「自尊心」とは、 自我が自らを惑わして 自我の実在性を受け入れることが出来たので、一時的に他者を自己中心的に利用せずにいられる、ということを意味するにすぎません。
このような「自尊心」は、ストレスによって傷つきやすく、そのストレスとは、 自我の存在が脅かされていると知覚されたもの全てを言います。
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自我は、文字通り比較することによって生きています。
平等であることは、 自我の理解を超えており、慈愛など不可能なものとなります。
自我は決して豊かさから与えることはありません。
なぜなら、それを補うものとして作り出されたものが 自我だからです。
だからこそ、「手に入れる」という概念が、 自我の思考体系の中に生じたのです。
本能的な欲望は「手に入れる」ための機制であり、自らを確認する必要があるという 自我の思いを表しています。
こうしたことは、 身体の本能的欲望についても言うことができ、いわゆる「高尚な 自我の心理的要求」についても、言うことが出来ます。
身体の本能的欲望は物質的なものがその根源ではありません。
自我は 身体を住み処と見なしており、その 身体を通して自らを満足させようとします。
しかし、こうすることが可能だという考えは、心が決めるのであり、そのような心は、実際には何が可能なのかについて完全に混同してしまっています。
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自我は完全に独力で成り立って自立していると信じていますが、それは単に、 自我が自分の起源をどのようなものと考えているのかを、別の方法で描き出しているに過ぎません。
これは確かに恐ろしい状態なので、 自我は他の 自我に頼るしかなく、一体感を持ちたいという思いからの弱々しい試みとして団結してみたり、強さを誇示する為に攻撃してみたりします。
しかし、 自我はこの前提を疑問に持ち出すわけにはいきません。
なぜなら、この前提こそが 自我の土台だからです。
自我とは、心が持つ「自分は完全に自律している」という信念のことです。
自我は絶えず、霊(Spirit)からの承認を獲得しようとして、それによって自らの存在を確立しようと試みていますが、それは無益なことです。
叡智の中にある霊(Spirit)は、 自我を自覚してはいません。
霊(Spirit)は 自我を攻撃しません。
ただ 自我というものを全く思い描くことが出来ないだけです。
自我も同じように霊(Spirit)を自覚していませんが、何か自分よりも偉大なものに拒絶されていると知覚しているのは確かです。
それ故に、 自我の言う「自尊心」は妄想的なものであるに違いありません。
神が創造したものが神話を創造することはありせん。
とはいえ、創造しようとする努力が神話作りに向けられることはあります。
しかし、それはただ一つの条件の下で可能となります。
つまり、それが作り出すものは、もはや創造的ではないという条件です。
神話とは全て知覚によるものであり、したがって、その形は実に曖昧で、その特徴として「善」と「悪」を本質とするので、最も慈悲深い神話でさえ、恐ろしい暗示的な意味合いを含んでいないものはありません。
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神話と魔術は深い関連があります。
というのも、神話は通常 自我の起源と関係があり、魔術は 自我が 自我のものだと考えている力に関係しているからです。
神話的体系は一般に、「天地創造」についての物語らしきものを含み、こうした物語とそれに特有の魔術の形とを結び付けています。
いわゆる「生き残るための戦い」とは、 自我による 自我そのものを保存しようとして足掻いていることに過ぎず、 自我の始まりについて自ら解釈したことに他なりません。
こうした始まりは通常、物質的な誕生と結び付けて考えられます。
なぜなら、その時点以前で 自我が存在していたと主張することは難しいからです。
より「信仰心のある」 自我志向の者は、霊魂はそれ以前にも存在しており、また一時的に堕落して 自我として生きた後も、存在し続けると信じるかも知れません。
中には、こうした堕落のせいで霊魂は罰を受けることになると信じる者さえいます。
しかし、 救済は霊(Spirit)に対して当てはまりません。
霊(Spirit)は危険な状態にはいない為、救助される必要はないからです。
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救済とは「心が正しい状態にあること」以外のものではありません。
「心が正しい状態にあること」は、 聖霊の一なる心の状態ではありませんが、一なる心の状態が回復させる前に達成されなければならないものです。
心が正しい状態は自動的に次の段階へと歩みを進めます。
というのも、正しい知覚は一様に攻撃性のないものなので、したがって、誤った心の状態は跡形も無くなるからです。
自我は裁きを下さずには生き残ることは出来ず、裁きがなくなれば退けられます。
その後は、心はただ一つの方向にだけ進みます。
その方向は常に自動的に向かいます。
なぜなら、心は自ら支持する思考体系から指示を受けずにはいられなくなるからです。
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何度強調してもし過ぎることはありませんが、知覚を正すことは単に一時的な方便に過ぎません。
そうする必要があるのは、誤って知覚することは叡智への障害となる一方、正確に知覚することは叡智へと向かう踏石となるからです。
そもそも正しく知覚することの価値は、いずれ必ず、全ての知覚が必要ではないという理解を悟るようになることにあります。
こうすることが、障害となるものを全部取り去ってくれます。
あなたは、自分がこの世界に生きているように思える間に、どうしてそのようなことが可能なのかとあなたは尋ねるかも知れません。
それはもっともな質問です。
しかし、あなたはそのことを真に理解できるように注意しなければいけません。
この世界に生きている「あなた」とはいったい誰のことでしょうか。
霊(Spirit)は不滅であり、不滅であるとは絶え間なく続く状態を言います。
それは過去において常に真実であり、これからも常に真実であるのと同様に、今も真実です。
それは全く変化しないという意味を含んでいるからです。
それは一つの連続体でもなければ、反対のものと比較されることで理解されるものでもありません。
叡智は決して比較を必要としません。
それが、心が把握できる他のあらゆるものと叡智との主な違いと言えます。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第4章「 自我の幻想」目次