奇跡講座テキスト編8章 8-7 コミュニケーションの手段としての身体

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第8章 「帰還への旅」8-7本文

 

第8章 8-7 コミュニケーションの手段としての身体

ACIM-Text- chapter8-7-1

攻撃は常に物質的なものです。

どんな形のものにせよ攻撃があなたの心に入り込むなら、あなたは自分を身体と同一視しています。

これが、自我による身体についての解釈だからです。

この解釈を受け入れるのに、あなたが物理的に攻撃をしていなければならない訳ではありません。

単に、攻撃することで自分の欲しいものが手に入れられると信じるだけで、それを受け入れていることになります。

もし、あなたがこれを信じていなければ、攻撃という考えはあなたにとって何の魅力もないはずです。

自分自身を身体と同一視するなら、あなたはいつでも息苦しさを経験することになります。

神の子供が自分のことをこのようなに考えるなら、その人は自らを卑しめており、自分の兄弟たちのことも同様に卑しめられた者と見なしています。

その人が自分自身を見い出せるのは兄弟たちの中だけであるので、このようにしてその人は自分を救済から切り離してしまったことになります。

 

ACIM-Text- chapter8-7-2

聖霊は身体をただコミュニケーションの手段としか解釈しないということを思い出しなさい。

神と神から分離した神の子たちの間のコミュニケーションの絆である聖霊は、あなたが作り出したものをことごとく、喜寿名としての聖霊の役割に照らして解釈します。

自我は身体を通して分離します。

聖霊は身体を通して他者に手を差し伸べようとします。

あなたは兄弟たちを聖霊が知覚するようには知覚していません。

なぜなら、あなたは身体を、他の心たちを結びつけて、それをあなたの心やわたしの心とに一つにするための手段として見なすことはしていないからです。

身体についてこのように解釈すると、身体の価値について、あなたの心はすっかり変化するでしょう。

身体それそのものには何の価値もありません。

 

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もし、あなたが身体を攻撃のために使うと、身体はあなたにとって有害なものとなります。

もし、あなたが自分を身体だと信じている人たちの心に到達するためだけに身体を使い、その人たちが身体ではないということを身体を通して教えるなら、あなたは自分の中にある心の力を理解するでしょう。

もし、身体をこのために、ただこのためにだけ使うなら、それを攻撃のために使うことは出来ません。

一つに結びつけるために使われる時、身体は聖餐によって一つになるための素晴らしいレッスンとなり、聖餐が実現するまで価値あるものになります。

これが、あなたが制限してしまったものを神が制限を無くす方法です。

聖霊は、あなたが身体を見るようには身体を見ていません。

それというのも、何であれそれそのものの唯一の実相は、ただ神がそれに与えている機能を果たすために、それが神に捧げる奉仕であることを聖霊は分かっているからです。

 

ACIM-Text- chapter8-7-4

コミュニケーションは分離を終わらせます。

攻撃は分離を促進します。

身体はそれが何のために活用されるかによって、美しくもなれば醜くくもなり、平和にもなれば残忍にもなり、役立つこともあれば有害にもなります。

そして、他の人の身体の中に、あなたは自分が自分の身体を何のために使おうとしたかを見るでしょう。

もし、身体が、一なる子の融合のためにあなたが聖霊に使ってもらう手段となるのであれば、あなたは身体をただありのままのものとして見るだけであり、他には何も物理的なものは見なくなるでしょう。

それを真理のために使うなら、あなたはそれを真に見ることになります。

それを誤って使えば、それを誤解することになります。

なぜなら、あなたはまさにそれを誤って使うことによって、既にそれを誤解していることになるからです。

何であれ、それを聖霊から離れて解釈すると、あなたはその何かを信用しなくなります。

これが、あなたを憎悪と攻撃と、平安の喪失に至らせてしまいます。

 

ACIM-Text- chapter8-7-5

しかし、あらゆる損失は、あなた自身の誤解からしか生じません。

どのような種類の損失も、不可能なものです。

しかし、あなたが兄弟を物質的な存在として見ると、もうその人の力も栄光もあなたにとっては「失われて」いて、あなたの力と栄光も同様です。

あなたは兄弟を攻撃したのですが、その前にあなた自身を攻撃したはずです。

あなた自身の救済のためにも、あなたは兄弟をそのように見てはなりません。

そして、あなたの救済は、兄弟に救済を必ずもたらすものです。

あなたの心の中で、その人に自分自身を卑しめをさせてはなりません。

その代わりに、卑小さについてのその人の信念からその人を自由にし、それによって卑小さについてのあなた自身の信念からも逃れなさい。

あなたの一部分として、その兄弟は神聖です。

私の一部分として、あなたも神聖です。

神自身の一部とコミュニケーションをするということは、神があなたの一部として確立した神の声を通して、神の国を越えその創造主に達することです。

 

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それなら、あなたひとりでは何一つ出来ないということを喜びなさい。

あなたが、あなた自身からのものではありません。

あなたが属する神は、あなたにあなたの力と栄光を与えることを意志しました。

あなたがそれをを自分自身のために受け入れる時、あなたはそれを用いて自分のための神の聖なる意志を完全に為し遂げることが出来ます。

神はは神の贈り物をあなたから取り下げてはいませんが、あなたはそれを神が自分から取り下げたと信じています。

神の御名にかけて、神の子を一人でも隠れたままににしておいてはなりません。

なぜなら、神の御名はあなたの名前だからです。

 

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聖書には「言葉(すなわち想念)が肉体となった」と述べています。

厳密に言えば、これは不可能です。

それは、一つのレベルの現実を別のレベルの現実へと翻訳することを当然必要とするかのように見えるからです。

いくつかの異なったレベルの現実というものは、単に存在するように見えるだけであり、それはちょうど異なったレベルの奇跡が存在するかのように見えるのと同じことです。

想念は物理的なものではないため、信念によって以外に、想念を肉体とすることは出来ません。

けれども、想念とはコミュニケーションであり、そのためには身体を使うことは可能である。

これが身体のための唯一の自然な利用法です。

身体を不自然に使うということは、聖霊の目的を見失うことになり、これによって聖霊のカリキュラムのゴールを混乱が生じるということになります。

 

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学ぶ者にとっては、自分が習得できないカリキュラムほど苛立たしいものは他にありません。

その人の適正な感覚が損なわれ、重苦しい気持ちにならざるを得ません。

学ぶことが不可能な状況に直面することは、世界で最も気が滅入ることです。

事実、これこそが、この世界そのものが重苦しいものであることの究極的な理由です。

聖霊のカリキュラムは決して重苦しいものではありません。

なぜなら、それは喜びのカリキュラムだからです。

学習への反応が重苦しさである時はいつでも、カリキュラムの真のゴールが見失われてしまったことに原因があります。

 

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この世界では、身体でさえ全一なものだとは知覚されていません。

身体の目的は、互いにほとんど関連のない数多くの機能に断片化されていると見なされており、その結果、身体は混沌に支配されているように見えます。

自我に導かれていれば、まさしくその通りです。

聖霊に導かれていれば、そうではありません。

身体は、あなたが霊(Spirit)から分離させようとしていた心の部分がその歪曲を越えて、霊(Spirit)へと戻っていくことができる手段となります。

このようにして、自我の神殿は聖霊の神殿となり、そこでは聖霊への献身が自我の献身に取って変わります。

この意味において、身体は確かに神の神殿となります。

神の声は、身体の用途を指示することによって身体に留まります。

 

ACIM-Text- chapter8-7-10

癒しとは、身体をただコミュニケーションのためにのみ使うことがもたらす結果です。

これは自然なことなので、全一にすることで身体は癒え、それもまた自然なことです。

心の全ては全一です。

心の一部は、「物理的なものであって、心ではない」という信念は、断片化された解釈か,

又は病んだ解釈です。

心を物理的なものにすることは出来ませんが、もし、身体自体を超越するために身体を使うのなら、物理的なものを通して心を顕現させることは可能です。

外へ拡がることによって、心はそれ自身を拡張させます。

心は身体のところで止まることはしません。

もし、心が身体で止まるのなら、心の目的が阻まれるからです。

阻まれた心は、自分自身に逆らったことになるため、自らを攻撃によって傷つく弱い存在としていまったのです。

 

ACIM-Text- chapter8-7-11

ということであれば、阻んでいるものを取り去ることが、助けと癒しを保証する唯一の道です。

助けと癒しとは、身体の中に在るのではなく肉体を通して働いている心が、正常に表現されたものです。

もし、心のゴールは身体だと信じるならば、心は身体についての知覚を歪めます。

そして、肉体を越えて自らが拡張するのを阻むことで、分離を助長し、病を引き起こします。

身体を分離した存在として知覚することは、病を助長せざるを得ません。

なぜなら、それは真実ではないからです。

コミュニケーションの媒体が、それ以外の何かのために使われるなら、その有用性を失います。

コミュニケーションの媒体を攻撃の媒体として使うことは、明らかなその目的を混同です。

 

ACIM-Text- chapter8-7-12

コミュニケーションをするとは心を一つにすることであり、攻撃することは分離することです。

この両方を同時に同じものに関して同時に行うなら、どうして苦しまずにいられるでしょうか。

身体についての知覚は、ただ一つの目的によってのみ統一できます。

これによって、身体を様々な観点から見たいという誘惑から心が解放され、身体が完全に一なる光に委ねられ、その光の中で身体が真に理解されるようになります。

学びの手段をカリキュラムのゴールと混同することは、両方の理解を妨げる根本的な混同です。

学びは、身体を越えて進み、身体の中に心の力を再び確立するところまで導かなければなりません。

これが達成できるのは、心が他の心へと拡張していき、その拡張を自ら停止しない場合に限られます。

この停止が、全ての病気の原因です。

なぜなら、拡張することだけが心の機能だからです。

 

ACIM-Text- chapter8-7-13

喜びの反対は重苦しさです。

あなたの学びが喜びではなく重苦しさを助長するなら、あなたは神の喜びに満ちた教師に耳を傾けて、そのレッスンを学ぶことにしていないに違いありません。

身体をコミュニケーション手段以外の何かだとして見るのは、あなたの心を制限することであり、あなた自身を傷つけることです。

とすれば、健康とは、ただひとつになっている目的以上のものではありません。

もし、心の目的はひとつであるので、身体が心の目的のもとに置かれるなら、身体は全一となります。

攻撃とは、ただ身体の仮想の目的でしかあり得ません。

心を離れては、身体には全く何の目的もないからです。

 

ACIM-Text- chapter8-7-14

あなたは身体に制限されてはいません。

そして、想念を身体にすることは出来ません。

けれども、心が身体を越えて進み、身体が制限だとは解釈しなければ、心は身体を通して顕現されることが可能となります。

あなたが他の人を、身体へと限定されたものとして見たり、身体で制限されているものと見たりする度に、あなたはこの制限を自分自身に課していることになります。

あなたの学びの全目的が制限から逃れることであるべきだというのに、あなたはこれを受け入れるつもりでいるのでしょうか。

身体を攻撃の手段として考え、その結果として喜びが生じる可能性があると信じるとは、未熟な学習者であることの明らかなしるしです。

その人は、このカリキュラムの統一された目的とは明らかに矛盾する学びの目標を受け入れており、その上、その統一された目的をその人自身の目的として受け入れる能力を妨げています。

 

ACIM-Text- chapter8-7-15

喜びとは統一された目的であり、統一された目的は神の目的だけです。

あなたの目的が統一されているときには、それは神の目的です。

神の目的を妨げられると信じるとしたら、あなたには救済が必要です。

あなたはいわば自分自身に罪の宣告をしたのですが、その有罪宣告は神からのものではありません。

したがって、それは真実ではありません。

その結果に見えるものせよ、それと同じく真実ではありません。

兄弟を身体として見るなら、あなたは自分自身に有罪宣告をしているので、その人にも有罪宣告をしています。

けれども、もし、全ての有罪宣告が実在していないとするなら、そして確かにそれは攻撃の一つの形なのだから実在しているはずはないのですが、それはもとよりいかなる結果ももたらすことは出来ません。

 

ACIM-Text- chapter8-7-16

真実でないものについての想像上の結果によって苦しむことを、自分自身に容認してはなりません。

これが可能だという信念から、あなたの心を自由にしなさい。

それは絶対に不可能であるということの中に、あなたが解放される唯一の望みが見いだせます。

しかし、これの他にどんな希望をあなたは望むでしょうか。

幻想からの自由は、ただ幻想を信じないことだけにかかっています。

攻撃は存在していません。

ただ限界のないコミュニケーションが存在し、したがって限界のない力と全一性が存在することは確かです。

全一性の力は拡張です。

あなたの考えをこの世界の中で停止させずにいなさい。

そうすれば、あなたは神の中で創造することに向かって自分の心を開くでしょう。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第8章 「帰還への旅」目次

8-1  カリキュラムの方向

8-2  幽閉と自由の違い

8-3  神聖な出会い

8-4  自由という贈り物

8-5  一なる子の分割のない意志

8-6  神の宝

8-7  コミュニケーション手段としての身体

8-8  手段もしくは目的としての身体

8-9  訂正された知覚としての癒し

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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