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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第31章「最後の心眼」31-3本文
第31章31-3自らを責める者
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自らを責める者だけが有罪宣告を下します。
これまでとは異なる結果を生み出す選択をするための準備をするにあたり、あなたがまず最初に、充分に学ばなければならないことが一つあります。
それは習慣的な反応となるべきものであり、あらゆる誘惑や、発生する全ての状況に対する特徴をなすものとならなければなりません。
これを学びなさい。
しかも、しっかりと学びなさい。
なぜなら、ここにおいてこそ、幸せの到来の遅延が、あなたには思いもよらないほどの規模で短縮されるからです。
あなたは決して兄弟の罪のために憎むのではなく、あなた自身の罪のために憎むのです。
その人の罪がどのような形を取るように見えようと、それは単にあなたがそれらの罪が自分のものであると信じ、そのために「正当な」攻撃に値すると信じているという事実を覆い隠しているのです。
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もしあなたが、それらは、あなたの中で赦されることが不可能だと信じていたのでなければ、なぜその人の罪が罪である必要があるでしょう。
あなたがそれらの罪が自分の実相だと信じていたのでなければ、なぜそれらがその人の中に実在しているのでしょう。
そして、あなたが自分を憎んでいるのでなければ、どうしてあなたはそれらを到る所で攻撃するのでしょうか。
あなたは、一つの罪なのでしょうか。
あなたが攻撃する度に、この質問に対して「その通り」と答えます。
なぜなら、攻撃することによってあなたは、自分が有罪であり、自分が受けるに値するのと同じものを与えなければならない、と断言しているからです。
そして、あなたの本性以外の何が、あなたが受けるに値するものでしょうか。
もしあなたが、自分が攻撃を受けるに値すると信じていなかったなら、誰に対してであれ、攻撃を加えることなど思いつくこともなかったでしょう。
なぜあなたはそのようなことをしなければならないのでしょう。
あなたにとって何の利益があるというのでしょう。
あなたが望むどのような結果があり得るのでしょう。
そして、いったいどのようにして、殺害があなたに恩恵をもたらすことが出来るというのでしょう。
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罪は、 身体の中にあります。
それは、心の中で知覚されるものではありません。
罪は目的として見られることはなく、行為として見られます。
身体は行動しますが、心は行動しません。
したがって、 身体が行なうことについて非難されるべきものは 身体だということになります。
身体は、あなたの命令に従うだけであり、それ自体では全く何もしない受動的なものだとは見なされていません。
もしあなたが罪であるなら、あなたはまさに一個の 身体であるということになります。
心そのものは行動しないからです。
そして目的は、心の中ではなくて 身体の中にあるはずだということになります。
身体は独自に行動し、自らを動機づけるということになります。
もしあなたが罪であるというのなら、あなたは心を 身体の中に閉じ込めて錠を下ろし、心の目的をその牢獄に与えているのです。
そして、牢獄が心に代わって行動します。
牢屋番は命令に従うものではなく、ただ囚人に対して命令を要求する者だということになります。
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しかし、囚人であるのは 身体であって、心ではありません。
身体は、いかなる想念も思考しません。
身体には、学ぶ力も、赦す力も、奴隷にする力もありません。
身体は心が従う必要のある命令を与えることもしなければ、心が服従しなければならない条件を設定することもありません。
身体は、 身体の中にとどまることを自ら望んでいる心のみを幽閉します。
身体は、 身体の囚われの身になろうとする心に命じられて病気になります。
そして、心そのものが病んでいるので、 身体は老いて死ぬことになります。
学びだけが、変化を引き起こす全てです。
したがって、学びが起こり得ない場である 身体は、決して変わることは出来ません。
ただし、心自身が自らの与える目的に沿って 身体の外観が変わることの方を選んだのなら、その限りではありません。
心は学ぶことができる、全ての変化はそこで引き起こされます。
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自分が罪であると考えている心にはただ一つの目的しかありません。
それは、 身体を罪の源にすることです。
すなわち、心は自ら選んで保護している牢獄の中に自分を閉じ込め、自分自身をそこから遠ざけておきます。
そうして、自分を眠れる囚人として、獰猛な唸り声をあげる犬のごとき憎悪や邪悪さ、病気や攻撃、あるいは苦痛や老い、悲嘆や苦悩といった囚われの身としておくのです。
ここに犠牲の想念の数々が温存されます。
なぜなら、ここでは罪悪が君臨し、世界に対してそれ自身と同じような場所となることを命じるからです。
それは、いかなるものも慈悲を見出すことは出来ず、殺害や死によってしか恐れの破壊行為の中を生き残ることが出来ない場所です。
ここではあなたは罪となっていて、罪は喜びに満ちた自由なものたちに我慢できません。
というのも、それらは罪が殺さなければならない敵だからです。
罪は死の中で保存され、自らが罪であると考える者たちは、自分自身の本性だと思っているもののために死ななければなりません。
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あなたは自分の信じているものを見ることになるということ、そして、あなたには信じることを変更する力が与えられているということを喜びましょう。
身体は後に従うだけです。
あなたが行こうとしない場所にあなたを連れて行くことは決して出来ません。
あなたの眠りを守ることも、あなたの目覚めを妨害することもしません。
あなたの 身体を幽閉から解放しなさい。
そうすればあなたは、誰のことも、自分が逃げ出してきた牢獄の囚人として見ることはなくなるでしょう。
自分の選んだ敵を罪悪感の中につなぎとめておきたいとも、自分が友だと思っている者たちを、移ろいゆく愛という幻想に縛り付けておきたいとも思わなくなるでしょう。
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無垢なる者たちは自らの解放に感謝して解放します。
そして、その人たちの目にするものが、その人たちが自分たちが幽閉と死から自由であることを伝えます。
変化に対して心を開きなさい。
そうすれば、兄弟やあなた自身に、往古の罰が課されることはなくなるでしょう。
なぜなら、神は、求めることの出来る犠牲など存在せず、与えることの出来る犠牲も存在していない、と伝えたからです。
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